その日、逢沢香月はいたく不機嫌だった。 理由はいたって単純明快。 冬にはストーブを使えるのに、ナゼに夏は扇風機がないのか。 そして、ナゼにこのうだるような暑さを無視して講習なんてものは行われるのか。 風が吹き込むどころか、益々熱を煽るようなけたたましい蝉の鳴き声にうんざりしながら、彼女は景気よくチョークを鳴らす教師へと視線を戻した。
『BABY × baby』番外編 ROUND # . 「彼女と彼の戦闘前夜」
「あーさすがにコッチは空が広いなー」 ダンボール箱を漁っていた手を休めてぐっと腰を反らすと、骨が細かく割れるような音をたてた。 封を切らずに放置されている荷物の海を掻き分けて、縁側に腰を下ろす。 青々とした空には、立体的で真っ白な雲が高々とそびえ浮かんでいた。 どこかから聞こえる蝉の声は、輪唱のように途切れることなく空間を埋めていた。 「あー正に夏。夏本番」 夜は星でも見ながらビールに枝豆だな、と、彼、岩代泰真は一人頷いていた。 「たーいしーん。さっさとやっちゃわないと、夜になっちゃうわよー」 「そりゃマズイ」 台所から顔を覗かせた母の声に、泰真はそそくさと荷解き作業を再開した。 母方の祖母の家に越してきて、一日目。 自分の荷物が置かれれば、引き戸も、押入れも、この瓦屋根の大きな家も、きっと自分に馴染むのだろう。 * * * 「それじゃあ今日はここまで。ちゃんと復習しとけよー」 そう言ってさっさと教室から引き上げていく古典の担当教師を目だけで追いながら、香月は静かに溜息を吐いた。 そう。 教師は職員室に行けばクーラーがある。 生徒はこのクソ暑い中、一瞬の施しもなく蒸し暑い箱に放置されているというのに、だ。 第一夏期休業というのは、夏の殺人的な暑さの中では勉学に集中できないからという理由で設けられている筈だ。現に北海道では期間が短い。 それなのに。 「なーんでやるかねー、こんなん」 黒板にむかってぼそりと吐き出される本音。 それが、がやがやと席を立ち始めている生徒達の物音に紛れる程度の音量に調節されているのは、言わずもがな。 さすがは逢沢香月。家の外ではいつでもどこでも抜かりない。 「おつかれさん」 ふと、横手からかけられた声に、香月はゆっくりと顔を向けた。 この『ゆっくり』の間に、不機嫌全開だった顔をキレイに整えて。 「樋川くん。おつかれ」 「手伝うよ」 「ありがとう」 もう一つの黒板消しを握り、左半分を消していく樋川修人──仮称、樋川少年。 彼は、このさりげなさによって、香月脳内イイ人ランキング首位独走中の、このクラスの副委員長様だ。 「にしても暑いなー。こんな日に『スイカカエテ』とかやってもなー」 空いているほうの手で、首に下げていたタオルを引き寄せ、顔を拭う。 正に先程まで盛大に野次っていた内容に、彼女は苦笑をもって答えるに留まった。 品行方正、成績優秀、容姿端麗と、正に『完璧』の代名詞とも言える『逢沢香月』は、人前で愚痴をこぼしたりはしないのである。 「でも、確かに今日の暑さはひどいね」 さりげない話題変更。このへんの手練手管は最早見事の一言に尽きる。 「だよなー。殺人的っていうか。元気なのは蝉くらいだろ」 そう言うと、樋川少年は窓へと視線をむけた。 授業中、香月が意識をむけた時のまま、窓は風ではなく蝉の声を取り入れているかのようだった。 「このへんは、蝉の声は聞こえるけど姿は見えないね」 黒板消しを置き、同じく窓のほうを向いた香月は、小さくそう呟いた。 まだ、彼女が今の『逢沢香月』ではなかった頃に過ごした、あの街を思い出しながら。 * * * 「おー蝉じゃん蝉ー」 川べりの土手に植わった木にしがみついている蝉を見かけ、泰真はふっと表情を緩める。 片付けを終え、買い物という名目の元に家を出た彼は、行き先も決めずにふらふらと歩いていたのだ。 決めずに、というよりは、決められないと言ったほうが正確だろう。彼はまだこの辺りの地理を把握していないのだ。 加えて。 「自分方向音痴だったなー、そう言えば」 一回行ったことのある場所ならまだ平気なんだけど、とぶつぶつ呟きながら、辺りを見回す。 流れる川。 広がる緑。 大きな空。 見上げなくても最上階が見てとれる、非常に健康的な建物の多い町並みは、以前住んでいた場所とは大きく違っていた。 何せこれまでは、蝉が、その体の色とは似ても似つかない角ばった建物の壁に、必死にしがみついているような所だったのだ。 それこそ、蝉の鳴き声のようにせわしなく、人も、時間も、動いている場所。 人も時間も、ゆったりと、それこそ入道雲が流れるような感覚で動いているこの土地に来たのは、自分にとっても、母にとっても、きっと、良かったのだろう。 視界に広がる景色をぼんやりと捉えながら、彼は漠然とそう感じていた。 じじじ 人の気配に、その鳴き声を抑え込んでいた蝉は、短く声を鳴らしてどこかへと飛んでいく。 それでも、見えないところから響く、幾つもの蝉の鳴き声は、途切れることはなかった。 泰真は、左肘を服の上からそっとさすりながら、薄く微笑んだ。 「さーて、と」 習うより慣れろを合言葉に、ここまでぶらりと歩いてきた彼だったが。 「おかんとばばやんに、花でも買って帰るか」 とりあえず栄えてる場所に出な、と、彼は再び川べりを歩き始めた。 * * * 干からびる……。 じりじりと肌が焼ける音が聞こえそうな勢いの日差しに、うんざりを通り越して既にげっそりしていた香月は、できるだけ日陰に貪欲に歩いていた。 とは言え、ここは市の商店街。 店は並んでいるものの、太陽の位置の関係か、歩道に差す日陰など、微々たるものしかない。 そんな中。 生温い空気が彼女の体を撫でて辺りを駆け抜けていく。 不快感、上昇。思わず彼女の眉間に皺が一本刻まれた、その時。 耳から涼しさを招く、いくつもの高音。 どこからだろうと辺りを見回した香月は、パラソルの下でパイプ椅子に座る男性の姿を見つけた。 その横には、吊り下げられた大小様々な風鈴。 あれか、と足をそちらにむける彼女。 露天商か何かだろう。朝はいなかったが、きっと、この暑さに今が稼ぎ時と出てきたに違いない。 確かに、この殺人的な暑さの中でこの音を聞いたなら、買いたくもなるわ、と、彼女は内心呟いていた。 よくよく見れば、店の前には既に先客がいた。 短く刈られた髪に、半袖とジーパンといったラフな格好。 その右手には、セロハンに緩く包まれた数本の向日葵が握られている。 何度も顔を上げ、パラソルの下の男性と話しているようだった。 同じくらいの歳の男が、花束を片手に風鈴を見ているというのも、めったに見られない光景だ。 そんなことを思いながら、彼女はその露店へと足を進める。 香月がその店のすぐ側まで来たのと入れ違いに、彼は風鈴をひとつ提げてその場を立ち去った。 遠ざかるグレーの大きな背を、何気なく見送る。 「いらっしゃい」 麦藁帽子にサングラス、真っ赤なアロハシャツに半ズボンといった中々陽気な格好のオジサマに迎えられ、香月はそっと飾られた風鈴に目を落とした。 彼女と彼の、戦いのゴングが鳴り響くのは、この数日後のこと。 |