「あれが……」 「暁の献上品か」 ひそひそと交わされる言葉を背中に浴びながら、少女は礼の姿勢をとり続けた。 その表情は、異国の民を表す黒髪に隠され、見ることも叶わない。 「顔をあげよ。暁の客人よ」 視界に映る、真紅の絨毯。 長く伸びるその先。 一段高いところに座す人こそ、少女のすべてを握っていた。 それこそ、生死さえも この国の頂点に君臨する女帝。 第98代ダスク帝国皇帝エタニティ。 世界の3分の2を領土とし、10の同盟国と42の属国を持つ世界最大国家であり、その権力と軍事力、そして宗教によって世界の中枢を牛耳るダスク帝国、至高の存在である。 祖国では見ることもない、鮮やかな夕焼けにも似た紫の瞳を、少女は真正面から見据えた。 ほう……、と辺りからため息がこぼれる。 夜空を溶かしたような闇色の髪。 朝焼けの赤と、空を渡る虹を封じた、色の異なる二対の瞳。 群青の着物の袖から覗く少女の顔だちは、明らかにこの国のものではなかったが、その作り物めいた美しさに誰もが視線を奪われていた。 『お初にお目にかかります。ダスク皇帝陛下』 だが、形のいい唇から紡がれたのは、異国の響きだった。 「な……!なんと無礼な」 「こちらの言葉は教えたのではないのか?」 「蛮国の言葉を陛下にむけて放つなど……」 かすかに広がるざわめきなど耳に入っていないかのように、少女は変わらず女帝を見つめていた。 その表情に変化はない。 ──この地から遥か東。そこに、少女の祖国はあった。 独立国家・暁。 四方を特殊な海流によって護られていたこの国は、その特殊な環境と島国という小ささ故に、同一民族によって、他国の侵略を受けずに独自の文化を形成していた。 だがそれも、3年前までのこと。 突如訪れた凪の季節により、島国を取り囲んでいた海流を失った暁は、あっけなく陥落した。 残されたのは、一部の民と、暁王家に脈々と受け継がれる古き血のみ。 「静粛に。謁見の途中です」 よく通る涼やかな声。 辺りを鎮めたその声にすら反応せず、少女は頑ななほどに一点を見つめていた。 ばさり、と女帝は口元を隠すように扇を広げた。 「簡単に膝を屈せぬか。成程、暁の民は幼な子でさえ誇り高いと見える。……だが」 ぱしん、と一度広げた扇が音をたてた。 細められた眼が、容赦なく少女を射抜く。 『状況を見極められねば、誇りも両刃の剣となるぞ』 己以外の口から発せられた祖国の響きに、少女はびくりと身体を震わせた。 驚きに目を見張る少女に、女帝はゆったりと笑みを浮かべた。 「海を越えての長旅、御苦労であった。さぞお疲れだろう。……そうだな、ウォーバード」 「……は」 名を呼ばれ、皇族席に控えていた大柄な男が半歩前に出るのを、少女は視界の端でとらえた。 「暁の客人はお前に預ける。丁重にもてなせ」 「……!」 厳かに放たれた一言は、湖面に投じられた石のように、ざわめきの波紋を広げていった。 「人質をウォーバード皇子に?」 「いくら王位継承権最下位とは言え、蛮族の民など……」 「怖れながら陛下。かの者を、殿下にお預けするなど……」 「控えろ、大臣」 耳に残る低音の声音が、ざわめきを静めた。 「陛下の勅命だ。お前達がどうこう言えることではないだろう」 皇子のその一言に、大臣達は途端に口を噤む。 一部始終を見、からからと笑いながら、女帝は試すように皇子に問いかけた。 「ウォーバード。お前はどうなんだ? 遠慮なく申してみよ」 「……ったく、悪趣味だな」 男の呟きを拾えたのは、恐らく何人もいないだろう。 少女とて、読唇術を習得していなければその呟きを拾えなかっただろう。 臣下を鎮めた威厳ある言葉とは異なる、意外な皇子の言葉に驚きながら、今後の成り行きを左右する展開に、少女は頭を下げるのも忘れ、皇子の顔をじっと見つめた。 夕焼けに照らされたような朱金の髪と同じ色の両眼。いずれも、女帝同様少女の祖国では見られないものだ。 眉間に入った皺と険しい表情が皇子の印象を険呑なものにしているが、不思議と恐怖を感じるものではなかった。 つ、と。 視線に気づいたのか、一瞬皇子と少女の視線が交わる。 無意識に唇の内側を噛みしめながらも、少女はその瞳を逸らすことはしなかった。 ふと、皇子の口元がわずかに上がったのを見とめた時には、皇子は返事を口にしていた。 「海の彼方からの客人、喜んでお預かりしましょう」 ばさり、とマントを広げ、皇子は優雅に礼をとった。 「決まりだな」 ぱん、と扇で玉座を打ち付けると、女帝は衣擦れの音をたてその場に立ち上がる。 「暁の客人よ」 少女は、かけられた声に小さく身じろぎし、その視線を女帝へと戻す。 「今日これより、そなたの身元はダスク帝国第2皇子、ウォーバード=ノア=ダスクトリアが引き受ける。異国の地故不慣れなことも多かろう。何かあれば、遠慮せず申されよ」 玲瓏とした響きに、少女は改めて礼をとる。 彼女の礼を鷹揚に受け取った女帝は、踵を返しその場を辞した。 一斉に頭を垂れる一同。 真紅の絨毯を渡る甘やかな香り。 その香りが最も濃く少女の鼻孔をくすぐった時、艶やかな声が少女の耳を掠めた。 『せいぜい殺されぬよう、気をつけるのだな』 その言葉に、少女はきつく手を結ぶことしかできなかった。 これが、後に「暁の魔女」と呼ばれ畏怖の対象として怖れられた女将軍と、第99代皇帝ウォーバードの、初めての邂逅であった。 運命の鐘の音が聞こえるか? |