白み始める庭。鳥のさえずり。
風をうけてやわらかくゆらめくカーテン。
部屋の隅、寝具と壁の間、窓から最も離れた場所に、少女はいた。



『至高の光。全知の光。原初の暁に、感謝と祝福を』



すらりと伸びた指が、虹色の右目を、そして左耳に連なる同じ色の耳飾りを撫で、手のひらを空へと返す。
静謐な、流れるような動作。
遥か海の彼方、極東の島国・暁。
寝室の中で最も祖国に近い場所で、姫は一日の祈りを捧げていた。
そっと、伏せていた両の瞳がゆっくりと開かれる。
いつもと変わらぬ色の違う二対の瞳は、確固たる決意を秘めその色の深みを増していた。












「まったく、殿下の気まぐれにも困ったものです」
「おはよう、ヘカテ」
シリウス宮の食卓では、普段よりも幾分かくずした服装をした皇子が、白髪頭のメイドの苦言を片耳に席を囲んでいた。
「聞いてらっしゃいますか、殿下!」
「聞こえている。だが朝はまず挨拶からだと俺に叩きこんだのはお前だろう?」
「……! えぇ、えぇ、そうですとも! おはようございますウォーバード殿下」
ひくり、と皺が深く刻まれた口元をゆがめ、丸眼鏡のずれを直しながら、ヘカテと呼ばれたメイド頭はお手本のように美しい礼をした。
それを見て、ふっと皇子は口の端を釣り上げる。
「あぁ、いつ見てもヘカテの背は美しい。俺があと5倍歳を重ねていたら、求婚していたに違いない」
「殿下!」
目の端を釣り上げ烈火のごとく怒るヘカテに、ウォーバードはくつくつと肩を震わせた。
「まったく! その悪戯小僧はいつになったら治るのでしょうね!?」
「さて。苦労が続くなヘカテ」
「そうお思いなら自重なさってください! ……今回のことも」
カチャリ、と自らお茶の給仕をしながら、メイド頭は声をひそめて続けた。
「なぜその場でお断りあそばなかったのです」
「私に断れると思うか? 断れるはずもない。なにせ皇帝陛下直属のご命令だ」
「いいえ! 御意思の確認があったと伺っておりますよ!」
カップに注がれる、透き通った飴色。
匂い立つ香りは甘さの中にも酸味を含み、朝の目覚めを誘う。
差しだされたそれを一口啜りながら、ウォーバードはふっと自嘲めいた笑みを浮かべた。
「意思確認など、形式上のものにすぎない。そんなもの、昔あの方に仕えていたお前が一番よくわかっているだろう?」
「……私がお仕えしていた頃は、まだ皇妃でいらっしゃいました」
「ふん、皇妃だろうと皇帝だろうと、あの方にそう違いはあるまい」
「怖れ多いこと! それに、陛下がどうおっしゃろうと、ご自分の意に沿わなければ断固として承諾なさらないくせに、今回ばかりそ知らぬ顔で勅命などとおっしゃるのはどの口ですか!」
嗜めるようにそう呟くと、ヘカテは静かに息を吐いた。
「しかし、エタニティ様も何をお考えなのか。未開の国の、年端もいかぬ人質を殿下に託すなんて」
「ヘカテ」
一瞬強さを増した声音に、メイド頭はぐっと息をつめた。
「それこそ怖れ多い。あの娘は小国とはいえ一国の姫だ。それに、人質とはいえ客人だ」
「何が客人ですか! そんなもの、言葉を替えているだけで結局は人質と同じ意味ではないですか!」
「そうではない。俺が言っているのは、<陛下の客人>だと言っているんだ」
「!」
「彼女は陛下からの預かり物。それを忘れるな」
「……かしこまりました」
気易い口調から一変、皇子としてのウォーバードの言葉に、ヘカテは不承不承に頷いた。

──姫君、姫君!!

ちょうどその時、扉の向こうからメイドの一人の悲鳴じみた声と共に、騒がしく近づいてくるいくつかの足音が響いた。
「……! あの声は」
「カメリアか。客人に手を焼いているようだな」
「まったく。後できつく言い聞かせます」
「いや、あの姫君には誰だって手を焼くだろう。ヘカテでも苦戦しそうだ」
「お相手なら、いくらでも」
白髪混じりの豊かな髪をひっつめ、落ちつきをはらった老婦人といった外見からは想像もできない好戦的な発言に、皇子がくつくつと肩を震わせたのと、食堂の扉が開くのとは同時だった。
バンッ
勢いよく開け放たれた扉の向こうにいたのは、黒髪を結いあげ、袖の長い真紅の衣を真っ青の帯で締めつけた、姫だった。
その後ろには、息も絶え絶えに慌てふためく若いメイドの姿。
「も、申し訳ありませ……。ドレスを……お召し頂こうとしたのですが……どうしても…頑なで……」
モーニング用のドレスも、当然姫の部屋には用意されていたが、姫はあくまで祖国の衣服にしか袖を通す気がないらしい。
どこまでいこうとも、誇りの高さだけは失わないその性質は、少女の美徳であり不幸だと、彼は感じていた。
「おはようございます、姫君」
洗練された仕草で礼をするヘカテ。
その声音は先程までとは異なり、どこか硬い。
だが、姫は彼女の礼に目もくれず、真っ直ぐ皇子の元へと歩を進める。
「! お待ちください姫君!」
「いい、ヘカテ」
慌てて二人の間に身を入れようとする彼女を声で制すと、ウォーバードはカップを置き少女へと視線をむけた。
帝国ではめったに見ない鴉の濡れ羽色の髪は、銀の飾り細工の髪留めでくくられ、きっちりと結いあげられている。
姫のこの髪形を目にするのは、ウォーバードは初めてだった。
ふとそこで、少女の左耳に揺れる虹色の耳飾りに気がついた。
目の前で揺れるそれに、するりと指を伸ばす皇子。
「っ!!」
だがその指が届く前に、姫が素早く身を引いた。
相変わらずの少女の態度に口元を歪めながら、ウォーバートは小さく呟いた。
「虹石か」
銀の檻に囲われるように、中央で揺れる虹色。
姫の片目と同じ色のその石は、暁でのみ発掘される鉱物であり、帝国でも希少品とされ、一かけらさえ商人たちがこぞって奪い合う、非常に高価な物だった。
普段は髪を降ろしているがゆえに隠れていたが、この髪形では主張しているかのように存在感を放っている。
「髪をあげるなら、そのピアスは外せ」
「……外せません」
「何?」
ゆっくりと紡がれた帝国の言葉に少なからず驚きながら、皇子は聞き返した。
『生まれ落ちたその日に、採掘された石を削り、この身を縛る。暁の民がこれを外す時は、最果ての庭で眠る時だけだ』
少女が語る言葉の意味を、皇子は正確には読み取れなかったが、大まかな意味は掴んだようだった。
「つまり、外す気はないんだな?」
「そうだ」
「! お言葉ですが姫君、殿下はあなたの身を案じて……!」
「ヘカテ」
素っ気ない言い草に溜まりかね、控えていたヘカテが口を挟むも、その言葉はウォーバード本人の言葉で抑えられる。
「であれば、髪はあげるな。少なくとも、外ではな」
「なぜ?」
「自分で考えろ」
ふん、と小さく息をつくと、ウォーバードは改めて少女を見つめた。
「それで? 朝から随分と騒々しい登場だが、一緒に朝食をとる気になったのか?」
これまで頑なに寝室にこもり、食事も一人でとっていた姫をからかうように、皇子は目を細めて向かいの席を見やる。
姫は一度目を伏せ、口をきゅっと真一文字に結ぶと、ゆっくりと瞼をあげた。
「昨日の、答えを持ってきた」
正確に発音するため、丁寧に言葉を重ねる姫。
予想外の少女の言葉に、ウォーバードは静かに目を細めた。
「ほう?」
手を口元の前で組み、皇子は鷹揚に問いかけた。
己を真っ直ぐに射抜く、色の異なる二対の瞳。
少女を余所者たらしめるその色が、これまでと違い、抑えようとも端から滲み出る憎悪にぎらついていないことに、彼は気づいた。





「私のすべてをくれてやる。そのかわり、お前のすべてを私によこせ」





たどたどしく紡がれる言葉。
だがその言語とは裏腹に、響きには確固たる意志が込められていた。
「さすれば、お前を、皇にしてやろう」
はっきりと、耳に心地よい鈴のような声音で言い放たれた台詞に、さすがの皇子も目を見開いた。
「な……っ!!」
掠れるように聞こえた声を辿ると、そこにはヘカテが顔を真っ赤に染め上げぶるぶる震えていた。
「なんと無礼な!! あ、あ、あ、貴女は! 殿下に何を言ったかわかっているのですか!? 属国の人質が!!」
尖った声が容赦なく叩きつけられるが、少女はそれすら聞こえていないかのように、微動だにしなかった。
ただ只管に、己の目の前にいるウォーバードを見つめていた。
その一歩も譲る気のない真っ直ぐな瞳に、皇子はふっと目元を緩ませた。
クックックック……
堪えながらも漏れ出たような、低く唸るような笑い声が誰のものか、その場の誰もがすぐにわかった。
「ふははははは!! 面白い! 面白いぞ姫!!」
「で、殿下!!」
「ウォーバード様!!」
腹を抱えて笑い転げる皇子の姿に、メイド二人が非難の声をあげた。
「取引のつもりか? お前の何が俺の利益になる? 古き血か? 身体か? それとも暁の国そのものか?」
がたん、と大きな音をたててウォーバードは立ち上がり、乱暴に少女の顎を掴み上げた。
少女を覗き込む朱金の眼。
その眼差しが、獲物を探る獣の眼に変わったことに、姫は気づいていた。
だがそれでも彼女は、男の眼を真正面から見据えた。
交錯する視線。
二人の間に走る緊張に、ヘカテさえ声をかけられなかった。
「フン、取引にもなりはしない」
一向に揺るがぬ眼差しに、皇子は鼻で笑った。
「だが」
骨ばった手が、掴んだ顎を突き放した。
その反動で、少女の華奢な身体がぐらり、と揺れる。
剥がれた視線。
「その度胸は悪くない」
よろけながら、姫は頭上から降ってきた言葉に勢いよく顔をあげた。





「いいだろう。その条件、呑んでやる」





懐を探り、皇子は姫に右手を差し出す。
そこには、昨晩奪われた姫の短刀が握られていた。





「せいぜい力をつけて、この俺を殺しに来るがいい」





短刀を受け取り、もう一度少女が男を見上げれば。
しなやかな獣が舌舐めずりをするように、男が不遜に微笑っていた。















其は地の御手か、







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10.02.25 up



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