言葉を紡いだ瞬間の、はにかむような表情。 彼の心を映したそれは、淡い色の花びらに注ぐ、春の日差しによく似ていた。 03. 砕想 部室棟へと続く道に、傘の花がちらほらと見える。 始業時間の一時間前とはいえ、普段ならこの時間でも朝練にむかう生徒が多く見られる筈だが、それがないのは、この雨では外の部活は練習できないからだろう。 そんなことを考えていたのも束の間。 パシャン、と嫌な音を聞き、慌てて視線を下げた藍の目に飛び込んできたのは、見事水溜りの真ん中を踏みつけた自分の左足だった。 「……あぅ」 呻きのような声と共にひとつ息を吐き、二、三度足を振る。 紺色のソックスには、小さな泥のしみがいくつもついてしまっていた。 「今日の魚座はついてない、か……」 つま先に広がる張り付くような感触に、再び小さくため息をつく。 今日一日は仕方ない。そう覚悟を決め、藍は部室棟へと歩いていった。 部室棟への道は、いくつかある。 武道館の裏を抜ける道、駐輪場の脇を抜ける道。 そして、武道館と体育館の間を通る道だ。 雨がビニール傘を打つ音に紛れて、遠くから様々な音が聞こえてくる。 竹刀の合わさる音、ボールが弾む音。掛け声、怒声。 雨だろうと、室内の部活は関係ない。 強豪バレー部ならば、尚のこと。 普段は全開にしてある体育館の扉は、今日は雨のせいか、少ししか開いていなかった。 雨を嫌ってそれまで速く動いていた彼女の足も、この時ばかりはゆっくりになる。 巧への想いを自覚してから、藍はこの道を通るようになった。 同じ体育館の競技なら部活中の姿を見ることもできただろうが、藍は陸上部。休憩中の姿を見ることができればいいほうである。 だから、この道を通るようにした。 毎回練習姿を見れるわけでもなく、話ができたことなんてそれこそ全くない。 ただ、少しでも、見ていたかった。 大きな音をたて、白いバレーボールが跳ね上がる。 扉の隙間からは角度のせいで何の練習かはわからない。だが、並んでいる列の中、巧と裕哉の姿が見えた。 今もそうなのか、と聞かれれば、それはよくわからない。 あの時。 あの、放課後のベランダで。 巧の言葉が。その表情が。 彼が告げた事実以上に、目には見えない空洞を藍の中に作っていったのは、確かだった。 けれど、携帯の着信を知らせるローズ色に、今だにじくりと胸が疼くのも、確かだった。 床の振動が伝わり、扉がかすかに震える。 『心配してたわよ、佐久間』 昨日の依子の声が、藍の脳裏をよぎる。 おそらく、あの自主練の時のことだろう。人の心に聡い彼だ。誤魔化せたとは藍自身思っていなかった。 現に、あの時押し付けるような形で持たせたタオルが、そのいい証拠だろう。 巧への想いにまで彼が気づいたかどうかは、藍にもわからない。 ただ、気づいていても裕哉は口には出さないだろうという確信が、彼女にはあった。 俺様だ無愛想だと一部の人間は言ったりもするが、それが彼の照れ隠しで、単に不器用なだけだと藍は知っている。 ふっ、と。 藍は、結構な間その場に足を止めていたことに気がついた。 我に返り、急いでその場を離れる彼女。 「……どうした、早瀬?」 「ん? いや、雨、相変わらずだと思ってさ」 小声で問いかけてくるチームメイトに、巧は小さく笑ってそう答えた。 わずかに開いた扉からは、線状に降る雨の雫がはっきりと見て取れた。 「結局、アンタがどうしたいかなんじゃないの?」 選手のデータを整理する手を休めずに、依子は一言言い放った。 昼休みは、彼女にとっては部活と同義語だ。 「どうするか、じゃなくてサ」 彼女はそう言葉を続け、ファイルから顔を上げる。 折りたたみ可能なミニテーブルを挟んだ向かいにいる藍は、パックのジュースをそのテーブルの上に置いた。 「どうしたいかは、あれから変わってない」 吸い込みすぎてへこんでいたパックは、藍が口を離した途端に小さな音をたてて徐々に形を戻していった。 最初は、涙は出なかった。 脳ミソがついていってなかったのか、藍は一人になっても教室でぼうっとしていた。 ようやく涙が出てきたのは、依子に一部始終を説明し始めた矢先で、一度出てからはどうやっても止めることができず、まぶたも声も次の日には最悪なことになっていた。 ふとした時に襲い掛かる記憶と言う名のリピート映像は、彼女の中の空洞を広げることしかせず。 自然出た答えは、諦めるという選択だった。 「ただ、決めるのと実際にやるのとじゃぁ、勝手が違うみたいで」 決めた答えは、いつも藍の頭の中にあった。 依子や裕哉とクラスが別れ、二人でいることが多くなるのはわかっていた。 さすがに、彼の笑顔や仕草に触れているのは苦しかった。それが無差別であれば尚更。 一度開いた空洞は、閉じるどころかじわじわと広がっているようにさえ、藍は感じた。 だが、よそよそしくなるのは嫌だったし、いきなりよそよそしくすれば、疑問をもたれるのは明白だった。 その思いは、出した答えと絡み合い、彼女を更に息の出来ない状況へと陥れた。 「だからって、何も相談相手にならなくてもいいでしょうが」 持っていたペンで、依子は藍の額をぐいっと後ろへ押しやった。 額をさすりながら、藍は小さく苦笑する。 「……そこまでやらないと、あのままずるずる行っちゃうと思って」 力ない笑みを見て、依子は無言で両手を伸ばす。 「依子?」 そして、効果音が聞こえる勢いで彼女の頬を下に引っ張った。 「いだだだだだだだ!」 「……その笑い方、ムカツクわ」 藍の悲鳴など聞こえていないかのように、低い声で呟く彼女。 藍の手が、「ギブギブ!」とでも言うように何度もテーブルを叩いているが、依子は完全に無視である。 迷惑をかけるのが、嫌だった。巧は勿論、依子や裕哉にも。 なによりも、早く解放されたいという思いが強かったのかもしれない。 自らを沈めるようなその行為は、彼女にとっては諦める近道に思えたのだ。 けれど、実際にはどうだろう。 結局は依子や裕哉を煩わせ、藍自身も身動きのとれない状況になってしまっている。 「情けないな、ほんと」 零れた言葉に、依子の眉尻がわずかに下がる。 その言葉は、依子が自分自身に向けた心の声でもあった。 「無理矢理押し込めたところで、どっかでシワ寄せが来んのよ。こーゆうのは」 そっと藍の頬を離し、依子は呟く。 「彼女がいるからって、好きでいちゃいけないってワケじゃないのよ?」 「……わかってるよ。でも」 藍が視線をファイルへと移す。 うっすらと日に焼けた長い指が、資料を左右に撫でた。 「まだ好きなんだとしても、この好きが、前の好きと全く同じになることはないよ」 淡く微笑むその姿に、依子は小さく唇を噛んだ。 これは、笑顔なんかじゃない。 この表情は、あの手の癖と同じものだ。 部室の外では、屋根を伝って落ちた雫がコンクリートに弾かれて、小さな珠を成していた。 |