前にいては、後ろの様子がわからない。
後ろにいては、その表情を見てとることができない。
箱の外から眺めている人間だけが、きっとすべてを知ることができるのだろう。





04 . 静動





マネージャーにとって、練習は時間との戦いだ。
短い時間の間、選手達が集中して練習をこなせるよう、マネージャー達は仕事を分担してサポートする。
外周のタイム計測やドリンク、タオルの準備は勿論だが、何十人といる選手の出欠やその日のスコア、そして時間の合間にはビブスの洗濯や練習試合の資料集め、整理なども入ってくるのだ。
それをまとめるチーフマネージャーともなれば、仕事や他のマネージャーだけでなく、すべての選手達にも目が行き届いていなければならない。
少なくとも依子自身は、そう思っている。
そしてそれは、簡単に言えば、手に負えないバレー馬鹿共の面倒を見る、ということだと。

「あーもう、アンタ達さっさと教室行きなさい! 片付かないでしょーが!」

練習が時間との戦いなら、練習後は選手達との戦争だ。
八時に終わる朝練は、八時三十分始業ということを考えれば充分時間の余裕がある筈であるのに。
バレー馬鹿には一時間という練習時間では物足りないらしく、更衣の時間を削ってまで練習している。
依子にしてみれば、彼らの気持ちもわかるだけに下手に口出しはできないが、本音を言えば自分達のことも少しは考えてほしいところだろう。
女子は、基本男子よりも身支度に時間がかかるものなのだ。
「より先輩、ドリンクどうしましょう……」
「片しちゃっていいよ。ウチらまで遅刻するハメになるし。先あがっちゃっていいから」
その言葉に、一年生のマネージャーは困ったように顔を傾げた。
「いえ、でも先輩は」
マネと言えどそこは運動部、縦社会というものが顔を覗かしているのだろう。
しかし依子は表情を緩めると、肩をすくめた。
「あ〜コレがチーフの宿命なのよ。所詮はしがない使いっぱしりってね」
「はぁ……」
「でもまぁ、最終確認ってぇ名目のもと、荷物持たないで見て回ればイイってのは楽な仕事だけどね」
悪戯をしかけたような表情でわざと軽く言う依子に、後輩マネージャーも小さく笑った。
「ま、そういうことだから、気にしないで先にあがって」
「……ハイ、わかりました」
ドリンクのボトルがいくつも入ったかごを持ちながら、彼女は小さく頭を下げて、その場を立ち去った。
そうして戻した視線の先には、始業時間まで十五分を切ったというのに未だ自主練を続ける連中。
もう一声怒鳴りつけて、それでもダメなら任せて自分も帰ろうと思い息を吸い込んだ、その時。

「あの……!」

背中から呼びかけられた声に、大声として吐かれるはずの息は、空気中に溶けていった。
振り向けば、制服姿の女子が直立不動で立っていた。小柄な体と小さくくりっとした目が、パピヨンやチワワと言った、愛らしい小型犬を連想させた。
依子は用件を聞く前に、またか、と思ってしまっていた。おそらく想像した内容と、彼女が口にすることはそう違っていないだろう。
「あの、バレー部のマネージャーさんですよね?」
体育館の入り口にいるせいで三段高いところから見下ろす形になってしまったせいか、彼女の声にはおびえのような色が含まれていた。
この場合、ただ単に緊張が限界点近くまで達しているせいなのかもしれないが。
見ているほうが痛々しくなってしまい、依子は彼女の傍まで歩み寄りできるだけ人好きのする表情で答えた。
「えぇ。そうです」
しかし、彼女の緊張の前ではあまり効果はなさなかったようで、彼女は頬をほんのり染めて自分の手を強く握り締めた。
「あの……、申し訳ないんですけど、佐久間先輩、呼んで来てもらえますか……?」
───佐久間か。
今月で何回目だよオイ、と思ってしまったのは仕方ないことだろう。
数多くの部員が呼び出される中で、彼女の知る限り一番多いのが裕哉なのだ。
巧もそれなりに呼ばれるものの、「彼女持ち」という周知の事実がその数を徐々に減らしている。
バレンタインや誕生日といったイベント以外で呼び出されるということは、本気とイコールで結んでよいと、依子は経験から感じていた。
「す、すぐに済むんで、お願いします!」
頼み込む彼女の表情から、その必死さがひしひしと伝わってきて、依子は複雑な気持ちになる。
「ちょっと、待っててね」
依子の言葉に、彼女は胸元で手を握り締めたまま、ペコリと頭を下げた。
去り際にコート内に目をやるが、一度声をかけたのだからと、何も言わずに男子部室へと足を進めた。

バレー馬鹿の中に、彼はいない。
裕哉は、おそらく朝練後の練習がマネの時間を削っていることを知っているのだろう。
だから、自主練をする場合は、昼休みや放課後の練習後に限られる。
試合前にどうしてもという時に朝練後にしても、必ず一言『確認はさせておく』と言うのだ。
するから、と言わないところが奴らしいが、こんな風に気を遣うことを知っている人間は、意外に少ないだろう。
少なくとも、外見やら部活の活躍やらで騒いでいる女共は、知らないのではないだろうか。
自分は知っている。それは腐れ縁だからだ。
部員もレギュラー組や、彼を慕っている後輩達などは知っているだろう。
きっと、先ほどの彼女も。
そこまで考えて、依子は重いため息を吐いた。
目だけ小さく右に動かせば、「陸上部」という古びた表札が見える。
藍も、知っている。
けれど、彼はわかっているのだ。
それが、彼を想っているからではなく、自分と同じく「腐れ縁」だからだということに。
「……切なぁー」
「なんだ、高城、部長から鞍替えか?」
「……早瀬先輩」
独り言であったはずのそれに謂れもない横槍が入り、依子は当の本人を鋭く睨み付けた。
「おお、コワ」
「自業自得ですよ、先輩」
「そのとーり。で、真樹つれてアンタは何してんの?」
既に制服姿の巧と、未だジャージ姿の真樹というセットに依子は素直に疑問を口にする。
「ビブス干してたら、先輩が手伝ってくれたんです」
「コレの帰りだったんだけどな」
言って、片手に持っていた携帯電話を見せる巧。
あぁ、と依子は納得のいった様子で頷いた。
「……週末の練習試合のハナシ?」
「何だよ、まさか部員の恋愛事情まで記録するワケじゃないだろ?」
「しないわよ、そんなもん」
笑みを浮かべたまま思ってもいないことを口にする巧に、依子はあっさり言い捨てる。
「ちょーどいいから、佐久間に伝言頼まれてくんない? どうせ部室戻るんでしょ」
「伝言? ……あ〜もしかして、ご指名?」
「そ。ご指名。あたしそこらへんにいるから、声かけて」
「より先輩、時間平気ですか?」
時計を見て眉を顰める真樹。長針はすでに四を指していた。
「ま、走ればなんとかなるでしょ。それに、遅刻したら佐久間にジュース奢らせるし」
まるで約束しているかのように言ってのける依子に、巧と真樹は小さく笑みをこぼした。
「あーぁ、かわいそうにな佐久間。アイツのせいじゃないだろーに」
「……誰のせいでもないですけど、ね」
囁くように紡がれた言葉は、普段の真樹にはないような声音だった。
依子はそれに気づき、わずかに目を細める。
しかし、巧は変わらない口調で言葉を続けた。
「そうだな。でも女子はスゴイよな、ホント。あいつが全部断ってんの、もうウワサにもなってんのにさ」
その告白の数のせいか、裕哉がどの告白も断り続けていることは、一部噂で広がってしまっている。
裕哉自身がその理由や噂についてほとんど口を開かないので、好き勝手に尾ひれがついていたり、憶測を呼んだりしている。
「関係ないのよ。彼女がいるわけでもないし」
誰かを好きになれば、そんなことは大した障害ではない。少なくとも、女には。
今も体育館の入り口で待っているはずのあの女子生徒の姿が依子の頭を掠めた。
「……ただ、知っていてほしいんですよ。自分の気持ちを」
耳を流れてきた響きは、ひどく柔らかく、それでいてどこかひんやりとしたものをくるんでいた。
依子は慌てて彼女、真樹の顔を覗き込もうとした。
「それじゃぁ、私は失礼します」
しかし、真樹はそれを避けるように踵を返した。
依子の心臓には、擦り傷を負った時のような小さな小さな痛みとも呼べないような違和感が疼いていた。
「意外だな」
しみじみと呟く口ぶりからは、それ以上のことは読み取れない。
「……あの子にも、いろいろあるんでしょ」
依子も、深くは口にしなかった。
「ま、」 巧が両手を頭の後ろに回して指を組む。
「口にしないからって、好きな人がいないってワケじゃないからな、誰でも」
一瞬、風が二人の間を吹きぬけていった。
依子は幾分かトーンの低くなった声音で呟いた。
「……それは、どっちのこと言ってるのよ?」
「一般論ってヤツだろ?」
訝しげに問いかける彼女とは対照的に、巧はうっすらと唇の端を吊り上げながらそう答えた。
それを見て、依子の眉間の皺が一本増える。
「そういう、微妙に匂わせる言い回し、ほんっとにキライ」
「うわ、ヒドイ言われようじゃんオレ。んじゃ、これ以上睨まれないうちに退散するわ」
言葉とは裏腹に、彼のその表情はほとんど変わっていない。
そのことが、依子の不快指数をさらに引き上げていた。
「知っててやってるなら最悪ね」
部室へと戻っていく巧の後ろ姿を、依子は噛み付くような目つきで見つめていた。






「……いない、か」
ランチタイム独特のにぎやかな声は、廊下にも十分に響いていた。
教室の出入り口から中を窺っていた藍だったが、結局目的の人物を見つけることはできなかった。
もしかしたら、昼休みも練習をしているのかもしれない。
そう思い、体育館へと踵を返そうとした、その時。
「誰探してんの?」
「うわ、わ!」
突然背後、それもかなりの至近距離からかけられた声に、藍の背が小さく飛び上がる。
「あ、悪い。そんな驚くと思ってなかったわ」
「……心臓に悪いよ、早瀬」
振り返って声の主を確かめてから、藍は重いため息を吐いた。
隣の教室を覗いていた彼女に気づき、直ぐ傍まで近づいてみた、という彼のあっさりとした言葉に、彼女は大きく肩を降ろした。

こういうことは、時々あるけれど。
いつも、どうしようもなく逃げ出したくなる。

「で、誰探してたワケ? 佐久間?」
「そう。でもいなくて。自主練してるのかなって思ったんだけど」
藍の言葉に、巧は納得いかないと言った様子で首を傾げた。
「たぶん、次体育の時以外はしないと思うんだけど。大して時間とれないし」
再び教室内を覗きこむが、前に貼られた時間割には、五限は生物と書かれていた。
「そっか。じゃぁ部室もいないかな?」
「さっきまでオレらがメシ食ってたけど、佐久間はいなか……あ〜!」
言葉の途中で何か思い当たった巧は、すぐに「あいたたた」と額に右手を当てる。
「え、なに?」
「や〜……」
言いよどむ巧に、疑問符を浮かべながら藍は尋ねる。
「えっと、オレが渡しとこうか? それだろ、佐久間の用事って」
彼の指差す先には、きれいに折りたたまれた青色のタオルがあった。
借りてから既に数週間が過ぎていたが、藍はまだ返せずにいたのだ。
心配を、かけた。
彼がどこまで気づき、タオルを貸してくれたかはわからなかったけれど、『大丈夫だよ』と言えるくらいになってから返したかったのだ。
……その言葉が、彼も気づかないくらい、些細な『嘘』になっている状態で。
結局は、余計に深みにはまる結果になってしまっているけれど。
藍は、微笑みながら首を横に振った。
「でも、もう少し探してみる。直接お礼言いたいし、もしかしたら依子なら知ってるかもしれないから。……ありがとね」
「いいって。んじゃ、いってらっしゃい」
「……いってきます」
この時間、依子は大抵部室で過ごしている。
それを知っている藍は、ヒラヒラと手を振る巧に笑い返すと、藍は特別教室棟の方へと歩いていった。
「どーなるかな」
零れた言葉は、誰の耳に届くことなく風にさらわれていった。






指定された時間よりも五分ほど早く、彼は中庭に足を踏み入れた。
普通教室棟と特別教室棟の間にひっそりとあるその場所は、ベンチや丸テーブルが置いてあるものの、四階建ての校舎に挟まれてあまり陽が当たらず、開放感もないせいか、めったに人が立ち寄らない場所になっている。
それはすなわち、呼び出しの類にはもってこいの場所、ということで。
部室棟の裏に次いでそういう意味では有名な場所として知られている。


『大変ね、アンタも』


朝、彼と共に体育館に戻る途中、依子はそう言った。
最初はいつもの皮肉かと思っていた彼も、その顔に浮かぶ無表情にも似た険しい表情に返そうと思っていた悪態を飲み込んだ。

『何でこうも、上手くいかないもんなのかしら』

それは、彼自身、喉の裏側で何度も何度も叫んだ言葉だった。
ともすれば、声に出してしまいそうなほどに。
意識せず、彼の口元がわずかに歪む。
ぎりぎりのところで何とか押し込んできたこの想いが、決壊する時は。

小さな物音が思考を割ったのは、その時だった。
目をやれば、時間よりも早いというのに、既にベンチの前にいた小柄な女子と目がかち合った。
視線があったことで少し動揺したのか、一瞬その目が揺らぐ。
けれど、口を真一文字に結び、彼女はすぐに見つめ返した。
「佐久間せんぱい……」
彼の名前を紡ぐと、彼女は小さくお辞儀した。
見るからに血が止まりそうなほど、強く握られた手。
その胸元に握り締められた両手が、彼女の緊張の度合いを表している。
「遅くなって悪い」
距離をつめながら一言ではあるものの謝る裕哉に、彼女はあわてて顔を振った。
「ち、違います! あの、あたしが早く来すぎちゃっただけで……!」
真っ赤な顔を、とれてしまいそうな勢いで振って否定し続ける彼女に、裕哉は小さく苦笑した。
それを見て、彼女は更に顔を染めて俯いてしまう。
「あの、来てくれて、ありがとうございます」
消え入りそうな高い声が、そっと言葉を紡ぐ。
裕哉は、自分を真っ直ぐに見つめてくるその瞳を受け止めながら、ただ静かに彼女の話を聞いていた。
「初めて、佐久間先輩を見たのは、部活見学の時でした。バレー部がスゴイって話は聞いてたんで、一回練習を見てみたくて」
そこで言葉を切った彼女は、その時のことを思い出したのか、柔らかな表情で目を細めた。
「中学に男バレがなかったんで、それが初めてだったんですけど、本当に、スゴくて」
ほう、とため息をついて、彼女は再び口を開いた。
「あたし、見入っちゃってたんです。そしたら、今度はボール追いかけて、人が飛び込んできて」
裕哉は、その時のことを思い出そうとしていた。
強いアタックでコートの外へ弾かれたボールを、反射的に追いかけることなど、彼には当たり前のことだ。
そのせいか、部活見学があった、ということは覚えているものの、その日の練習風景までは思いだせずにいた。
「結局ボールにはあと少し届かなくて。先輩、スゴイ勢いで床に両手叩きつけてたんです。……覚えてますか?」
「いや……」
正直に答えると、彼女は小さく微笑んだ。
「そうだと思ってました。……先輩にとっては、それが普通なんだなって、思ってたから」
辺りの木々が影を揺らす。
「その日から、ずっと佐久間先輩を見てきました」
彼女の肩あたりで揃えられた髪が、かすかに流れる。
植え込みを掠める音が、わずかながら聞こえた。
「先輩の噂も、知ってます」
その表情はほんのりと色づきながら、ピンと張り詰めた緊張に包まれている。
「たぶん……断り続けている、理由も」
裕哉が、わずかに目を見開いた。
「それでも、どうしても、知っていてもらいたかったんです」
ゆっくりと一度まばたきをして、彼女はしっかりと音を紡いだ。
「ずっと前から、佐久間先輩が好きでした」
風が、そよぐ。彼女のほうから裕哉へと。
青々とした緑の葉が触れ合って、耳障りのいい音を残していく。
「……悪い」
彼女に届けられたそれは、たった一言だったけれど、決して無機質な響きを持つものではなかった。
むしろ、その逆。


「好きな奴が、いるんだ」


それは、今まで発せられることのなかった言葉だった。
彼女を撫で、裕哉に届いた風は、中庭の入り口へと吹きぬけていった。
「ありがとう、ございます」
胸元の手を解放して、彼女は微笑んだ。多少、ぎこちなく。
最後の言葉は、嫌味でも皮肉でもなく、真摯な響きを帯びていた。
「いや……俺こそ。ありがとな」
裕哉の言葉に彼女は笑みを残し、その場を立ち去った。
一拍後、彼の口から小さく息が零れた。
何回繰り返しても、この苦い感覚に慣れることができない。
ましてや、今回は断られるのをわかっていての告白。
『何でこうも、上手くいかないもんなのかしらね』
アイツは、わかっていてそう言ったのかもしれない。
裕哉はそう思った。
あれは、自分の想いを、そしてあの女子生徒の想いを感じていたからこそ出た台詞なのだと。
そして、もう一人。
「……おい」
裕哉が、普通教室棟のほうへと声を投げる。
思考から抜け出すように、そちらへと足を進めながら。
「えっと、あの……」
彼の動きを察し、バツの悪そうな表情で建物の影から姿を見せたのは、藍だった。
裕哉は、あたふたする彼女の様子を見とめ、おおげさに大きなため息をつく。
「ノゾキとはいいご身分だな、高須賀」
「いや、えっと、悪気は……」
「立ち聞きしといてよく言うな。……で? どこから見てた」
容赦なく言い捨てる、ある種彼らしい口調に、藍は小さな声で呟いた。
「『ずっと佐久間先輩を見てました』……から……」
つまり、肝心なところはしっかりと聞かれていたことになる。
裕哉は口元を手で覆った。
「ほんと、ゴメンなさい、わたし」
「プライバシーの侵害だな」
うなだれる藍にこれ以上気を遣わせないよう、あえて悪態をつく彼。
「うぅ、ホントごめん」
「……購買のコーヒーで許してやる」
「うわ、出たよ俺様」
裕哉の様子に、藍も普段のやりとりを返し始める。
「そういうこと言える立場か、お前は」
「……スミマセン」
しかし、底に流れる明らかに普段とは異なる靄が、二人の間に気まずい沈黙をもたらす。
それを象徴するかのように、二人の間を風が通り抜けていった。
そうして、何秒たっただろう。
ふと、藍が口を開いた。
「いたんだね、好きな人」
裕哉は彼女に視線をむけるが、足元を見つめている藍の表情は見えない。
……決壊の、時は。
その時、目に飛び込んできたのは、彼女が手に持っていた青いタオル。
一瞬の、間。
裕哉は、ひとつ息を吸い込んだ。
「さぁな」
その言葉に、藍が顔を上げた。
「なにそれ」
「断るための嘘、って可能性もあるだろ」
「……そうなの?」
小首をかしげる彼女に、裕哉はいつもの表情で言ってのけた。
「ノゾキには、教えられねぇなぁ」
「!!」
藍は目を見開き、そして「うぅ〜」という呻きと共にしぶしぶながら引き下がる。
その様子に、彼は小さく、本当に小さく息を吐き出した。
「おら、昼終わるから行くぞ」
藍の頭に無造作に、けれど決して痛くはない力加減で、裕哉は自分の手のひらを置いた。
そして、二度、三度と繰り返し軽く叩く。
「うん。……あ、これ、借りてたタオル。ありがと。長々ゴメンね」
「あぁ」
そう言って差し出されたタオルを、受け取ると、更に藍は言葉を続けた。
「心配、かけちゃったね。……ありがと」
ふわりと微笑む彼女のその笑みは、無理をしているようには見えない。
ただ、どうしてか酷く、透けているように裕哉には感じられた。
返事の代わりに、もう一度彼女の頭を叩くと、そっと手を離した。


「お前は、知らなくていいんだよ」


そっと、零れ落ちた裕哉の想いは、風に溶けるかのように、ただ、そっと。
青いタオルが、彼に無言で告げている。
あの時のことを忘れるな、と。
裕哉は、しっかりとそのタオルを握り締めた。





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05.10.03



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