目には見えないものだから。
手では触れられないものだから。
それらは、強い存在感を持つのだろうか。





05 . 朧影





開け放たれた窓からそよぐ風は黒板の反射を防ぐためにひかれたカーテンを膨らませ、窓側の生徒の悩みの種となっている。
それは、何も授業中に限ってのことではない。
相変わらず風を巻き込んで大きく裾を伸ばすカーテンと、窓の間に収まっていた藍は、桟にもたれ、開け放たれた窓の隙間から頭だけを外へ出して空を仰いだ。
見えるのは、少し前までは灰色をしていたとは到底思えないほどに、深みを増した青色。
そして、見事なコントラストを描いている、真っ白な雲だった。
ふわりと、前髪を風が撫でる。
視線の先では、その巨大な塊もゆっくりと動き始めていた。

さっきの数学は何をやったのか?
つい二分前に終わった授業を、藍はほとんど右から左に聞き流していた。
昼休みに聞いた、思いがけない言葉のせいで。
裕哉がモテることなど、それこそ入学当初から当たり前のことで。
誕生日やバレンタインともなれば、休み時間のたびに姿を消していたのを、彼女もはっきりと覚えている。
告白を全て断っていると言う噂も、当然耳には入っていた。
どうして、今まで考えもしなかったのか。おのずと、その答えに辿り着こうものなのに。


『好きな奴が、いるんだ』


ただ、事実を告げる声。
それでも、その声は確かに、深く穏やかな響きを帯びていた。
表情すら、目すら見なくてもわかってしまったほどに。

「たーかーすかー」
「!!」
青空を映していたはずの視界が、突如人の顔に変わり、藍はその場に固まった。
「おい、高須賀?」
それを見て小首をかしげ、彼女の目の前でその大きな掌を振るのは。
「は、はやせ……っ」
「おう」
「お願いだから……いつもいつも唐突に現れるのやめて……」
身を起こし、窓へと向き直る藍は、酷く疲れた声でそう言った。
「あ〜悪ィ悪ィ」
桟を挟んだ向こう側、ベランダに立ちながらさして反省した様子も見せずに巧は笑っている。
「……悪いと思ってないでしょ?」
「や、思ってるって!」
「全然顔色変えないくせに」
「……お前、絶対高城に影響受けてるだろ? オレは昔の素直な高須賀が好きだったのに、ナゼ」
「!」
大げさに目元を拭う素振りをする彼の前で、藍は声すら出せずに固まっていた。

違うのだとわかっていてもまだ反応してしまう自分に、藍はどうしようもなく泣きたい衝動に駆られる。
決めたのだ。
決めた、はずだ。
……それでも。
一体、あと何度同じ決意を繰り返せば。

「高須賀?」
降ってきた声に顔を上げれば、束ねたカーテンを片手に見下ろしてくる彼の視線とぶつかった。
藍は、不自然じゃないように笑みを浮かべる。
「……後で依子に言っちゃうよ?」
「げ!? そりゃえげつないって! マジ言わないで、頼む!」
パン、と景気のいい音を鳴らして顔の前で手を合わせ、必死の形相で頼み込んでくる巧に、藍は小さな声を出して笑ってみせた。
「だいじょーぶ。言わないよ」
「あーよかった、それでこそ高須賀!」
「それで? 本題は?」
巧の目ではなく顎のラインを見つめながら、藍は話を進める。
彼女の問いに、巧は小さく頭を掻きながら、口を開いた。
「あー、特別用事ってワケじゃないんだけどな。ただ、ボケーっとしてるから」
その言葉に、藍は先ほどまで頭を占めていたことを思い出す。
「あぁ、うん、そっか。それで」
「タオル、持ってないってことは、佐久間に会ったってことだよな?」
裕哉のあの台詞が、再び藍の鼓膜に響く。
「……うん、まぁ」
微妙な間と、濁してしまった言葉尻。
これでは何かあったと暗に言ってるようなものではないか、と内心で自分にため息をこぼす藍。
そろりと巧を見上げてみると、「あ〜」とか「う〜」とか言いながら、彼は先刻より激しく頭を掻いていた。
「鉢合わせた? やっぱ」
「早瀬知っ……!?」
急転直下。突如核心をついたその問いかけに、反射的に大声を出してしまった藍は慌てて口元を押さえた。
「……知ってたの?」
眉間にわずかに皺を寄せ、普段よりもやや鋭くなった眼差しが。彼へと向けられる。
巧は、一瞬だけその目を見やり、長くため息をつきながら、降参とでも言うかのように両手を軽くあげた。
「朝、呼び出されてたのは、な。昼いないって聞いて、もしかしたら、ともチラッと思ったけど。……にしても、ナイスタイミングじゃん、高須賀」
「最悪、の間違いだよ……」
ポーズとは裏腹に、悪びれもせず、むしろ意地悪い巧の言葉に、藍は机に伏しながらか細い声で呟いた。
一方の巧はといえば、そんな彼女の様子に口元を緩める。
それは、今朝依子にむけたものとも、日頃彼が友人達に見せているものとも明らかに違っていた。
「別に、覗こうと思って覗いたワケじゃないんだし、そこまで気にしなくていいんじゃないの? むしろオレや高城なら嬉々として覗くけどな。そんなオイシイ場面」
その言葉に、藍はわずかに微笑み返した。
意味もなくぼうっと正面の黒板を見つめた藍は、そこでふと、弾けるように巧へと振り返った。
教室内のざわめきも、藍からすればどこか遠くに聞こえていた。


「早瀬は」


ずらしずらししていた視線を、この時だけは彼の目にあわせる。


「佐久間の好きな人とか、知ってるの?」


一瞬、強く舞った風のせいで、結局は目を瞑ったけれど。
「珍しいな。高須賀がそーいうの聞くのって」
彼の感想に、藍の目がほんのわずかに揺らぐ。
それを知ってか知らずか。巧は彼女の答えを待つ。
「そりゃぁ……目の前で、そういう現場を見ちゃったら……。野次馬根性だってわかってはいるんだけど……」
今は目の前にいない彼に対する申し訳なさからか、先刻と同様言葉尻を濁すという普段はしない口調で言葉を紡ぐ藍。
「おっと? それは、オレや高城が日頃野次馬根性丸出しだっつ〜キビシイご指摘かな?」
「え? …あ、違う違う!! そういう意味じゃなくって……!」
にんまりと口元を弧に歪める彼に、パタパタと手を振って藍は否定する。
その慌てっぷりに、巧は堪えきれずに噴き出し、くつくつと肩を揺らす。
「ちょ……早瀬!」
「っく…ワリ……いや、それでこそ高須賀! いい反応いい反応」
「嬉しくない〜」
軽くむくれる藍に、ようやく笑いを収めた巧は変わらない流れで口を開いた。
「いるだろ」
「……へ?」
「だーかーら、佐久間」
急に引き戻された話題に、藍は「あぁ、」と相槌を打つ。
「オレはあいつから直接は聞いてないけどね。でも高二の一般男子が、好きなコの一人もいないってのはありえないでしょ?」
さも当然という様子の巧に対して、藍は目を伏せそっとため息をつく。
彼も、知らないのだと、そう思って。
その様子を、しかし巧は目の端で確かに捉えていた。
「なぁ、高須賀。今度はオレからも一コ質問」
休憩時間わずか十分。この間に、もう何度繰り返したかわからない。
「ん?」
かけられた巧の声に、藍は顔を上げた。


見えたのは。
何かが、違う、巧の表情と、彼に伸びた、あの桜の木の淡い影だった。






「高城」
同じ頃。その隣の教室では。
「んあ?」
ポッキーを口にくわえたまま顔をむけた依子に、裕哉の眉間にひとつ皺が刻まれる。
「んあ? じゃねーよ。昼時間ないなら五限の後買えっつったのお前だろうが」
普段以上に荒れた言葉遣いは彼の不機嫌指数をそのまま表している。
だが、そんなことを気にする依子ではない。
「あ〜朝のアレ? 何ホントに奢ってくれんの?」
「……行くぞ」
「ちょ、待ってくれてもいいでしょうが!」
言うだけ言ってさっさと背を向けて教室を出ようとする裕哉を見て、くわえていたポッキーを口の中に押し込み、それでも菓子の箱は手放さずに、依子は彼の後を追いかけた。
彼女が教室から出ると、そのすぐ隣、入口の引き戸にもたれながら裕哉が待っていた。
「どもども」
「なんで持ってきてんだよ」
依子の手に握られた赤い箱を見やり放たれたのは、呆れたような声。
「せっかく飲み物買ってくれるんだから、お菓子も必要かなと思いまして。おひとついかが?」
隣に並び、菓子を勧める彼女。
女子の中でも背の高い部類に属する依子だが、さすがの彼女も裕哉を相手にするには見上げるしかない。
裕哉の眼前で箱をちらつかせようと軽く跳ねるたびに、プリーツスカートが小さく踊る。
「だぁっ、虫かテメーは」
はたき落すように繰り出された手のひらは、依子の額で軽快な音を鳴らした。
「ッた! か弱い女子に手をあげるもんじゃないわよ」
「ドリンク六本入ったカゴ、一気にふたつ運ぶ奴のどこがか弱いって?」
「そんなに腕っ節強くなったのはアンタ達のせいです」
こっそりと見ているつもりだろうがはっきりと感じる女子の視線の中で、二人はそれでもそんなことを気にするそぶりもなく自販機のある購買へと歩いていく。
それこそ、裕哉にしても、マネージャーである依子にしても、そんなことは日常茶飯事なのだ。

ふと、裕哉の視線が右へと動く。
つられて自分も動かし、その先にあった姿を見て、依子は微かに口元を綻ばせた。
見上げた先の、彼の目元が和らいでいるのは、きっと気のせいではない。

彼らの教室の、ひとつ隣。開け放たれた、後ろの戸。
見えたのは。

「ねぇ、佐久間」
「何だよ」
「それ、無意識?」
「は? …………!!」
下から覗き込んだ依子に見えたのは、相も変わらずな仏頂面が、サっと一瞬だけ色を変えた様子だった。
無論それはすぐに元の表情に戻されて、おまけに皺が更に追加されていたが。
「……死ね」
「ハイハイ。まぁ〜食いなよ」
言って差し出されたポッキーを、裕哉は今度は箱ごとひったくった。
しかし当の本人は堪えた様子をカケラほども見せてはいない。むしろコロコロと笑い続けている。
対峙している相手の悪さに、心の底から深いため息を吐いた、その時。

どこか温度の違う、声が。彼の耳に届いた。

「……言えばいいのに」

そう、それは。紛れもなく、先刻まで笑っていた依子の声で。
性格からか、まるでどこかの少女漫画のような今の状況を、誰よりも把握しているせいか、滅多なことを口にしない彼女にしては、とても珍しい言葉だった。
そう感じたのは、無論彼とて同じで。
「珍しいな。お前がそんなこと言うの」
隣を見下ろし、小さく笑う。それは、面白い、楽しいという感情から零れるものではなく。
依子は、裕哉の見せる表情に、開きかけた口を徐々に閉じる。
そして、俯いてその場に立ち止まってしまった。
一歩遅れて、裕哉も足を止める。
「おい」
廊下にひしめいていたざわめきが多少小さく聞こえるのは、その場所が、階段という上下に抜ける空間の傍だからであろうか。
「……こういうこと、言いたくなんてないんだけど」
顔を伏せたまま、紡がれた依子の声は、まるで喉の奥からこそぎ落としてきたかのようだった。
そのらしくない態度に、裕哉は顔をしかめる。
揺らいで見える、感情の幅。
「たか……」
「早瀬は、」


「全部、知ってるのかもしれない」


顔を上げた彼女の口元は、きつくきつく結ばれていた。その裏側で、下唇を噛み締めていることに誰も気づかないだろう。



窓から離れた二人の元に落ちるのは。
上下に続く階段の、濃灰色の冷たい影だった。





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06.01.27


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