ゆらり、ゆらり。 うねりをあげる水面は、光を歪ませあたりに散らす。 06 . 揺落 空が藍色に染め上げられ、グラウンドの片隅にある照明は、薄闇の中を整備して歩く生徒達の後ろ姿をわずかに照らす。 それでも尚、体育館からは、開け放たれた扉から白熱灯の光が浩々とアスファルトに伸びていた。 館内の正面、舞台のちょうど中央に位置する時計の長針は二を、短針は、七と八の間を差している。 バレー部の放課後練は、基本的には十九時頃で切り上げている。 今は、各自の自主練の時間である。 放課後練の後だけでなく朝練の前後に自主練をする者もいるため、自主練を行う部員の数は多くて五、六人が相場であるが、ここ数日、特に今週に入ってからはその人数が増している。 今度の練習試合、相手が相手だし。 今日の自主練の人数とその内訳をひっそりとノートに記しながら、真樹はあと三日後に迫った練習試合の相手校のデータを記憶の引き出しから取り寄せた。 青葉ノ森学園。 県内有数のスポーツ学校として知られる青葉ノ森学園は、その知名度も全国区である。 普通科や看護科以外に体育科を設置していることから、他県から進学してくる者も多い。 サッカー、バスケ、陸上など多くの競技において上位を占めているが、中でもバレーは近年特に好成績を残しており、全国大会にも顔を出している。 つい何週か前に行われたインターハイ県予選では、決勝で対戦し、フルセットの末に辛くも勝利を収めたものの、先の春の選抜大会、通称春高へのキップを賭けた県予選では、青葉ノ森が勝利している。 全国大会に進めるのは、県で一校のみ。 そう、青葉ノ森とは、熾烈なライバル関係にあるのだ。 選抜の県予選時、まだ中学生だったものの、それでも幼馴染である裕哉の応援に駆けつけていた真樹は、当時の敗戦を目の当たりにしていた。 今のレギュラー陣は、まさに春高をあと一歩のところで逃しているメンバーなのだ。 それを考えれば、この熱の入り様も納得がいく。 また、依子曰く、監督はそれすら考慮に入れて今度の練習試合を組んでいる、という。 さすがは知将として、学内外から恐れられている人物である。 パイプ椅子に腰掛け、口元を右手で覆いながら耽々と練習を見つめる監督の姿が瞼の裏側に浮かび、真樹は小さく息を吐いた。 「ため息」 左上からぼそっと響く耳に馴染んだ低音に、真樹はさして大きな反応もせずにそちらを見上げた。 半袖だったはずのTシャツの袖は、まくりあげられ肩口で止まっている。 引き締まった腕を一筋の汗が流れ、体育館の白熱灯の光を細かく反射していた。 その手は、真樹の横にあったカゴから黄色のドリンクボトルを掴みあげる。 「お疲れ」 掛けられた労いの言葉に、裕哉はボトルから口を離さずに顔を僅かに上下させる。 そのままコートが見えるように反転し、真樹の隣で壁にもたれた。 「……疲れてんのか?」 視線をコートに向けたまま、静かに尋ねてくる裕哉。 真樹はそんな彼をちらりと上目遣いで窺い、視線をノートに移して口を開いた。 「全然。ただ、ウチの監督はやっぱりやり手だなって考えてただけだよ」 「今更だな」 当然のごとくの即答に、真樹は小さく笑い声をあげる。 それを横目で見やり、裕哉もまたわずかに口元を緩めた。 「裕哉センパイこそ、もうスタミナ切れですか?」 「はっ、言うじゃねぇか」 わざとらしい敬称と言葉遣いに乗せた彼女の軽口を、裕哉は鼻で笑い飛ばした。 「ほんと、強気だよね裕哉って」 「上等。……あぁ、前から言おうと思ってたけど、お前部活中はそれやめろ」 「それ?」 「……呼び方」 すぐに聞き返してくる真樹に、裕哉はため息交じりで簡潔に言い放った。 ノートの上を滑っていたペンが、一瞬動きを止める。 「……なんで?」 「部活中は、俺は選手で、お前はマネージャーだろ」 再びボトルに口をつけ、相変わらずチームメイトの自主練を観察している裕哉。 真樹の声に滲む色にも、彼は気づいていない。 「なら」 真樹の、少しかさついた唇が、開く。 握られたペンのかすかな軋みは、体育館に響き渡るボールの音や靴の裏のゴムが擦れる音に他愛もなく掻き消されてしまう。 「普段は、いいんだ?」 語尾の音を上げて疑問形に逃げた理由を、真樹は自身でわかっていた。 幸いにして、床に座っている彼女の表情は、覗き込まれない限り裕哉に伝わることはない。 「……いいも何も、お前が『"裕哉"がいい』って言って聞かなかったんだろうが」 さらりと告げられた言葉に、真樹は更に顔を俯かせた。 部活中なので、その胸まではあろう豊かな黒髪も今は束ねてしまっている。 じんわりと潤んだ目元も、それとは対照的な口角の上がった口元も、隠す方法は他に、 ない。 それでも、今にも泣き出しそうな微笑みなど、彼に見せるわけにはいかなかった。 「……真樹?」 何も反応を返さない彼女を、裕哉が不審に思い視線を落す。 「自分だって名前で呼ぶじゃん」 「……、この」 搾り出された声は、多少湿っぽくなったけれど、他の音が響くこの場所ではそう大した違いは見せない。 案の定、彼はボトルを軽く真樹の頭にあてただけで、目立った反応はしなかった。 どうにか自分を落ち着かせ、裕哉を見上げた真樹は、彼の肩に掛かっていたタオルを見て再び動きを止めた。 夏の空にも似た、まっ青なスポーツタオル。 彼女の脳裏を、数週間前の光景がかすめた。 真樹は、筆記具をまとめてその場に立ち上がった。 「今朝の」 視線を、合わせることができない。 「断ったんだってね」 わずかな沈黙。 「あぁ」と、極力抑えられた裕哉の声が真樹の耳にだけ届く。 「バカみたい」 明らかな空気の違いを、裕哉も感じ取っていた。 「あんなに想ってくれる子、めったにいないのに」 はっきりと思い出せる昼休みの相手の言葉に、裕哉は心臓が軋むような感覚を覚える。 「なんで……」 「そういうんじゃねぇんだよ」 歯の隙間からどうにか息を漏らして吐き出すように、落とされた、言葉。 眉間に皺を寄せた険しい表情の裕哉を、直接見るまでもなく、感じ取る真樹。 「いつまで……っ」 唇以上に渇ききった喉の裏側を通り、声が絞り出される。 彼の肩から、あの青いタオルを抜き取る真樹。 「いつまで、そうしてるの…っ!」 顔をあげた真樹は、鋭い、けれどどこか切なさを帯びた目つきで裕哉を射抜く。 「お前……」 その言葉に、様子に、真樹の言わんとしたことを察した裕哉は言葉を失った。 ひりひりと、低音火傷にも似たひりつきが、心臓から広がっていくのを彼女は感じていた。 部室では、依子が練習試合に備えてユニフォームのチェックを行っていた。 女子では二人がかりでないと運べない大きな透明の収納ケースは奥から引っ張りだされ、ふたの上には紺のユニフォームが番号順に上下セットで置かれている。 前回使用した際の名簿で誰がまだ返却していないかを確認し終え、再びケースにユニフォームをしまっていた彼女だったが、ふと、次のユニフォームに手を伸ばして、動きを止めた。 「なんであんなこと言っちゃうかなー、あたし」 軽くそのユニフォームの番号をはたけば、服の隙間に入っていた空気がいくらか押し出される音がした。 床に敷かれた水色のすのこの上に座りこんでいた依子は、部室の壁際をコの字型に沿って備え付けられている木のひとつなぎのイスに、腕をだらりとほうりそのまま左頬を押し付けた。 何が引き金だったのかはわからない。 ただ、今日は確かに朝から感傷的な気分にはなっていた。それは、依子自身もわかっていた。 裕哉に想いを伝えに来た、女子生徒。 想いの片鱗を見せた、真樹。 不可解な行動が目立ってきた巧。 そして、裕哉のあの、表情。 全てを見渡せる彼女の位置だからこそ、逆に混乱してしまったのかもしれない。 それでも、と、依子は思う。 それでも、裕哉まで混乱に巻き込んではいけなかった、と。 彼もまた、藍と同様に、むしろ藍以上に、張り詰めた状態なのだ。 それなのに。 依子の口から、深い深いため息が吐き出される。 燻る自己嫌悪を、どうにかしてやり過ごそうとする。 それにしても。 依子は、今朝の部室棟での巧の見せた表情を思い浮かべる。 それにしても、あいつは何を考えているのだろう? 『口にしないからって、好きな人がいないってワケじゃないからな、誰でも』 うっすらと口の端を吊り上げた、あの人を食ったような笑みが彼女の脳裏をよぎる。 知って、いるのだろう。あれは、そういう笑みだ。 なら、どこまで? どこまで彼は、この箱庭の中で流れ漂う想いの行先を知っている? 真樹の、そして裕哉のそれを知っていて、あえて黙っているのだとしたら。 その理由は、ひとつしかないのではないか。 「……ふざけたことしてみろ、ブッ飛ばしてやる」 開け放たれた窓から覗く暗闇を睨み付けながら、ぼそりと依子は呟いた。 彼の動きは先が読めない分気にはなるが、今の最大の問題は、それではないのだ。 今は、そちらの問題の対処法を検討しなければならない。 そこまで考えた彼女は、ぐっと力を入れて身を起こし、再びユニフォームの作業に取り掛かる。 そこに。 コンコン。 ノックの音に顔を上げれば、磨硝子越しに佇む人影が見て取れた。 「はい、どうぞ」 後輩か誰か部員だろうと思っていた依子は、二つ返事で声を返す。 からからと、引き戸を開いて姿を見せたのは、既に練習を終え制服に着替え終えた藍だった。 「藍? どーした?」 「今お邪魔しても平気?」 「いいよ、入りな。散らかってるけどね」 ひょいと肩をすくめて自分を取り囲むように並んでいるユニフォームを見やる依子に、藍も小さく苦笑しながらすのこの上に座った。 「相変わらずの働きぶりだね。ゴメンね、仕事中に」 「いいのよ、どうせもう自主練なんだから。あの馬鹿共が帰るのを待つ身です」 「本田先輩もいるんでしょ?」 「あの人が馬鹿の先頭よ」 あっさりと言い捨てる依子の様子に、藍はうっすらとした微笑みを返した。 手を動かしながらも横目でそれを見とめた依子は、わずかに眉を寄せながら言葉を続けた。 「藍、アンタ今週の土曜、練習あるの?」 「あるよ、午前練。どうして?」 何気なく聞き返す藍の言葉を耳にしながら、依子がわずかに視線をあげる。 「……土曜、練習試合があるんだけど、相手が強豪で。多分ウチの部員殺気立ってると思うから、土曜は体育館周辺には近寄らないほうが身のためかも」 「身のためって、おおげさな」 「わっかんないわよ? 剛速球が外にまで飛んできて顔面に当たったりしたら、それ本気でシャレになんないんだから」 ちゃかしながら説明する依子だったが、その目はどこか祈るような真摯さを帯びていた。 「だからね。依子サンの言うことは聞いときなさい?」 「わかりました」 くすくすと笑いながら、藍は小さく頷いた。 しっかりとそれを見た依子は、いつの間にか手を止めてしまっていたことに気づき、また片付け始める。 藍はただ、ぼんやりとそれを眺めながら何も口にしようとはしない。 バレー部の女子部室に掛けられた丸時計の針の進む音が、やけに大きく二人の耳を埋めていった。 「ねぇ、依子」 そっと、息をこぼすように落とされた声に、依子は顔を上げた。 「佐久間の、好きな人って、誰なのかな?」 思いがけず紡がれた藍の言葉に、依子はただただ目を見開くことしかできなかった。 ゆらり、ゆらり。 落ちていくのは。 |