空の器に、想いをしまう。 増し行く嵩から視線を逸らして。 08 . 飽和 「おーおー、お出でなすったみたいだねぇ」 ボール出しをしながら、周りに聞こえるか聞こえないかの声で三門が呟いた。 彼の呟きを拾った葛西が扉の方を見やる。 ぞろぞろと列をなして歩いて来るジャージ姿を、彼らは充分に見知っていた。学校のイメージカラーである深緑は、白を基調としたジャージにも、サイドのラインとして取り入れられている。背には、同じ色で<Aobanomori>と書かれていた。 「整列!」 『── ッス!!』 バレー部男子現キャプテン・本田の号令で、それまで床を打ち付けていたボールの音が止む。 同時に、床を踏み鳴らす音が一段と大きく響き渡り、部員は皆体育館の扉の前に並んでいた。 青葉ノ森の生徒の先頭にいたスポーツ刈りの男 ── 青葉ノ森のキャプテン ── が、一歩進み出て口を開いた。 「気をつけ! 礼!!」 『よろしくお願いします!!』 左手の赤いリストバンドで額の汗を拭った本田は、列を一瞥すると青葉ノ森に続いた。 「気をつけ、礼!」 『よろしくお願いします!!』 キャプテン同士が握手を交わし、またその向こうで監督同士が話しをする中、挨拶を済ませた面々は、すぐにその場から散って行った。 依子は、対戦校に向けていた視線を一端外し、チームメイトへと走らせる。 相手も彼女を見ていたようだ。依子の姿を見つけた裕哉は、コートに戻る他の部員の流れに逆らい、彼女のもとへやって来た。 「……いたか?」 「いないみたい、ね」 簡潔な問いに、依子も簡潔に返す。 「早瀬は?」 裕哉は答えることなく、ぞんざいに顎で自分の右後ろを示した。 そっと彼の示す方向を覗き込むと、そこには。 「あれじゃ、入ってなかったみたいね。連絡」 はぁ、と溜息と共に肩を撫で下ろす彼女。 「……あぁ」 少し表情の和らいだ依子に、裕哉は依然変わらない声で短く答えた。 二人の後方。 ところどころメッキが剥がれ、茶のサビが見えているポールの傍に、巧は静かに佇んでいた。 その表情を、いつになく不機嫌そうに歪めながら。 部室棟から駐輪場へと向かう道の途中で、藍はそろりと体育館を覗いていた。 「帰るついでにちょろっと」という名目のもと、彼女は練習試合を見に来たのだ。 依子の言いつけを忘れたわけではない。 しかし、未だ巧や裕哉の試合をきちんと見たことが無かった藍に、その言葉は効力を持たなかった。 幸い、彼女がいるその道は、外履きを履いていないと通ることができない。つまり、扉はあるものの人の出入りが行われることはない。 これならば、人の邪魔になることもなく、依子に見つかることもないだろうと、そう藍は考えたのだ。 が、しかし。 「いない……」 そう、彼女の視線の先には、見知った顔は何人かいるものの、巧や裕哉の姿はなかった。 実は、レギュラーチームは午前の試合を既に消化し、早目の昼食をとっていたのだ。 無論、藍がそんなことを知るはずもないのだが。 「言いつけ破った罰だったりして」 誰に言うでもない言葉は、床に叩きつけられたボールの音に掻き消された。 さて。 どうしたものか、と藍はこれからの自分の行動について考えこむ。 このままここにいても意味はない。が、だからと言って、裕哉達の試合はどうしたのか、なんてことを聞ける筈もない。 そんなことをしたら。 依子が笑顔で「あたしの言うことが聞けないって? え?」と詰め寄ってくるところをリアルに想像してしまった藍は、なんとなく、纏わりつくような湿気と気温が一気に上がったように感じた。 無論、それは彼女自身の気持ちの問題によって、だが。 「あー……。帰れってことかも。これは」 肩を落として、藍は歩き始めた。 開け放たれた扉から外へと漏れていた館内の音が、ゆっくりと遠くなる。 試合の様子に思いを馳せながら、ふと、藍は視界に入ってくる景色に足を止めた。 体育館からしばし。 部室棟から駐輪場へと続くこの道から、右に伸びる小道。 草木が生い茂るこの道は、中庭へと、続く道だった。 藍の脳裏を、否応なく先日の告白シーンがよぎっていく。 『ずっと前から、佐久間先輩が好きでした』 振り絞るような、声。 けれど。 『たぶん……断り続けている、理由も』 はっきりとした決意を感じた、声。 思わず身を隠した藍は、声の持ち主をしっかりとは見ていなかった。 しかし、その声は。声から感じたものは、しっかりと覚えていた。 凄い、と。 そう思った。 想いを告げるということ。 結果がわかっていても、伝えること。 それは、自分にはできないことだと、彼女はわかっていた。 だからこそ。 それを実行してみせたあの声の主を、藍はただただ、凄いと、そう思った。 そして。 『好きな奴がいるんだ』 耳の奥でしっかりと響いたその言葉に、藍は思わず辺りを見回した。 誰もいないことを確認し、そこでひとつ大きく息を吐く。 何をしているのか、と。 あまりにはっきりと、あの時と違わぬ声が鼓膜に響いたため、藍は傍に裕哉が来ていたのかと辺りを見回したのだ。 そんなわけがない、という、否定する自分と共に。 思えば、あれから藍と裕哉は面とむかって話をしていなかった。 それは、避けていたとかそういうことではなかったのだが。 もしかしたら、あの言葉が効いているのかもしれない。 藍は、するすると芋蔓式に今彼女を縛る情景や言葉が引き出されてくるのを感じていた。 それは、あの後。 裕哉の告白現場を目撃してしまった彼女が、教室に帰った後に、言われた言葉。 『高須賀が気にしてるのは……』 「もしもし?」 突如、風に乗って聞こえた声に、藍は意識を引き戻される。 どこから聞こえたのか。辺りを見回すが、草木や自転車置き場があるだけで、人の姿は見えなかった。 「あー、ひっどい声してんなー」 続いて聞こえた声は、小道の先から発せられているようだった。 その聞き覚えのある声に、藍は小首を傾げた。 彼は、先程まで、藍が体育館で探していた人物の一人ではなかったか? そっと、中庭へと足を進める彼女。 もしやまた、という考えがよぎらなかったわけではないが、さすがに部活中、例え休憩時間であったとしても告白をしたり受けたりはしないだろう。 そういう結論に到った藍は、それでも万が一のために足音を立てないよう気を配りながら、奥へと進んだ。 「午前は一勝一敗。残念でしたー」 けらけらと笑いを交えながら、彼──巧の声は響く。しかし、他の声がしない。 どうして? ゆっくりと開けてきた視界に飛び込んできたのは。 「ま、大人しく寝とけ。帰り、寄ってやるから」 ふわり、と。 囁きかけるような、柔らかく穏やかな、声。 細まる目元に、やんわりと刻まれる笑い皺。 耳に寄せられた、携帯電話。 それで、充分だった。 藍は、逃げるようにその場を立ち去った。 その直後、巧がふと、そちらに目をやったのにも気づかずに。 |