季節は留まることなど知らず、静かに色を染め変える。
揺らめく視界の春色が、知らずに色味を違えたように。





09 . 水底




「……どこ行きやがった」
不機嫌さを隠そうともせず、裕哉は携帯を片手に低く呟いた。
一定の間隔で無機質な音を繰り返す通話音を、荒い動作で切断する。
履歴に残るその名前にすら腹が立ち、裕哉は直ぐに" 早瀬巧 "の名を消去した。
部室前。
彼らレギュラー組の休憩時間は、もうすぐ終わろうとしていた。
しかし、ふらりと何処かへ消えた巧が、未だ姿を見せないのだ。
まさか、あの短い昼休憩に会いに行ったわけでもあるまいし、と内心で毒づきながら、裕哉は用件だけを簡潔に書いたメールを送信した。
「早瀬捕まったかー? 佐久間ぁー」
右手に弁当、左手に箸を持ったまま、部室の小窓から顔を出す永田。
トレードマークのタオル頭に、裕哉は無言で視線を投げた。
「ンだよー。見つかんねーからって俺ニラむなっての」
「睨んでねぇよ」
そう言って、用事を済ませた携帯を、窓から自分の荷物へと放り投げる。
「ぎゃっ!! あっぶねーだろ佐久間!」
「葛西ちゃんチキンー」
「オレか!? オレが悪いのか!?」
自分の右脇に落ちた携帯に、抗議の声をあげる葛西。
そして、しめたとばかりに三門がすかさずちょっかいを出す。
こちらのことなど気にも留めない相変わらずのやりとりに、裕哉は大きく溜息を吐いた。
「あいつがいないなら俺が出るが?」
「あっれー? 大原サン、オレ差し置いてそんなこと言っちゃうワケー?」
「やめとけ三門。……それに、いくらあいつでも試合放ったりはしないだろ」
「だよなー。確かにいつになく気ィ立ってたけどよ」
午前中、巧の気が立っていたことを、チームメイトは皆感じ取っていた。
普段から人当たり良く、のらりくらりと自分の感情を表に出さないところのある巧にしては、珍しいことだった。
無論、理由はわかっている。
それは、青葉ノ森の面々を見れば一目瞭然だった。
女子マネージャーが一人、いないのだ。
相手校から聞いたらしい依子の情報によれば、どうも体調を崩したとのこと。
何も聞かされていなかったらしい巧が、不機嫌になるのも道理だろう。
彼女の存在は、ライバル校のマネージャーという以上に彼ら東葉船橋高校バレー部には知れ渡っている。
何故なら、そのマネージャーこそ、巧の彼女なのだから。
だからこそ、裕哉と依子は、彼女の存在を真っ先に確認し合ったのだから。
「どんだけ早瀬がアホでもちゃんと来るだろ。佐久間もそろそろ行っとけよ」
葛西の結論づけるような言葉に、裕哉はひらりと手を挙げ「了解」の意を示すと、その場を離れた。

青葉ノ森学園との練習試合。
それを聞いた時、真っ先に浮かんだのは、バレーとは別のことだった。
そっと巧を盗み見れば、やはり彼もまた別のことに想いを馳せている様子が見て取れた。
思い浮かべた存在は同じだろう。
ただ、裕哉が感じていたのは、彼とは恐らく正反対のものだった。
鉢合わせてはいけない。
そう、反射的に彼は思ったのだ。

裕哉は空を見上げた。

結局、全ては取り越し苦労に終わったわけだが。
裕哉は思う。
もしも、真正面から出会っていたら、彼女はどうしただろう。
必死に、あの笑顔を作るのだろうか。また、手のひらを握り締めて。
その姿は、容易に想像できた。もう何度、目にしてきたか知れない。
だからこそ。
いっそ──

ハッ
短く、それこそ吐き捨てるかのように裕哉は息を切った。
首から下げていたタオルを引き上げて、顔から被る。
纏わりつく湿気以上にうっとおしい雲を、視界から押し出すように。
「……キてんな、俺も」
汗で重みを増した生地に吸い込まれる、くぐもった声。
顔面を覆っていたタオルを取り払い、前へ向き直った裕哉は、ふと一点で視線を止めた。
俯き加減で、足早に歩いていくのは。


「高須賀……?」


既に建物の影へと入ってしまった制服姿。
それを何とはなしに見送った裕哉は、入れ替わるように同じ方から歩いてきたその姿を見やり、眉をひそめた。
「佐久間ワリ、探した?」
「早瀬……」
「悪ぃ、ちょっと野暮用でサ」
駆け寄ってくる巧の様子が、午前と明らかに違うことに、裕哉は気づいていた。
「早瀬、お前……」
「わーるかったって! ちょっと心配で電話してたんだよ」
その言葉に、裕哉は先程彼女が立ち去ったほうへと視線を向けた。
既に誰もいないことを知りながら。
「早瀬」
「なに?」
「……葛西、呼びに行ってくれ」
裕哉は、視線を移さずに声だけを巧へと向けた。
「は?」
「頼む」
そう言い残すと、裕哉は巧の返事を聞かずに走り出した。
「おい、お前試合は!?」
聞こえているだろう声に答えることなく小さくなる背中に、巧はひとつ、溜息を吐いた。





藍は、ひたすら歩き続けていた。何も、わからないまま。
何処に向かっているのかも。何処に行こうとしているのかも。
胸に渦巻く想いの名前も。喉に貼り付いて声にならない言葉も。
今、彼女を突き動かしている、感情が、一体何なのかも。
何も、わからずに。
ただ、そうすることで、迫り来る何かを誤魔化すかのように、彼女は歩いていた。
あのまま、あの場所にはいられなかった。
それだけは、藍にもわかっていた。
わかっているのは。

彼女の名前と。携帯電話の着信ランプの色と。
それから。

あの、柔らかな表情が、鮮やかに浮かびあがる。


それが、全てだ。


ガタンッ
ふらりと凭れ掛かるようにぶつかったのは、教室の扉。
土曜日の教室は、整然と机が並ぶのみで。
それは、彼女の脳裏にあの日の情景を思い起こさせるのに充分だった。
一歩ずつ、あの日いたベランダへと足を進める。
電気がついていない教室は、陽の光を取り入れながらも、どこか薄暗かった。
机の角にぶつかることも気にせずに、ゆっくりと、前の窓へと向かう藍。
しかし、教室の中央部まで来たところで、彼女の足は止まった。

窓から見えるのは、掠れた緑の葉を揺らす桜木。

カタン
ふと、背後でした物音。
肩を揺らし、振り向いた藍は、目を見開いた。
「佐…久間……」
「……」
教室の入口で、肩をわずかに上下させながら佇んでいたのは、裕哉だった。
額から、汗が一筋頬を撫でて流れていく。
裕哉は、藍の目を射抜くように見ながら、表情を歪ませた。
「高……」
「あ……ゴメンゴメン、いきなり人がいたから驚いちゃって! わたし英語のノート忘れちゃってさー月曜当たる日なのにバカだよねー」
裕哉の声を遮るようにすらすらと言葉を紡ぎながら、藍は自分の机へと足を進める。
「バレー部は練習試合なんだってねー見たかったんだけど依子に止められちゃってさー」
口を挟む隙間を与えない一方的な言葉の羅列は、静かな教室で拾われることなく落ちていく。
「相手も強豪らしいねーどこだっけ確か青葉ノも……」
「高須賀」
低く、どこまでも静かに名前を呼ぶ、声。
聞きなれた筈の低音が含む、静かな強さに、藍は口を噤んだ。
「あの時も」
唯一の音が、空気を震わせ鼓膜に届く。
「手、握ってたな。ベランダで」


耳を掠める、風のざわめき。
淡い白が隙間なく咲き乱れる中で、舞い落ちる花びら。
『彼女、できた』
始業式の放課後。ベランダ。
二人で桜を見ながら、そっと告げられた、言葉。
ぎこちなく動かした視界に映る、はにかむような笑み。
柔らかな眼差しから隠すように、握り締めた、手のひら。


藍は、弾けるように窓を見た。
しかし、そこに風に乗り舞い散る桜の花びらなど、ある訳もなく。
桜木は、緑葉を揺らすことなく、ただ穏やかにその場に佇んでいるだけだった。
まるで、彼女に現実を知らしめるかのように。
「……なん…で……?」
乾ききった喉から出たのは、掠れて途切れたか細い声だった。
「見てたんだ」
机の中を探るために彼に背を向けていたのが、藍にとってせめてもの救いだった。
ただしそれは、ほんの一瞬だったけれど。
「知ってんだよ。……だから」
ぐっと引き寄せられた頭。
額に感じる、Tシャツの布地と、ぬくもり。


「泣いとけ」


ふわり、と、後頭部に置かれた大きな手のひら。
触れられたわずかな場所から伝わる、かすかな心音は、酷く、安心させるもので。
その全てに、耐え切れなくなった藍は、小さく、小さく体を震わせた。
「……っ」
色を失うほどに握り締められていた手のひらが、ふっと、力を緩める。
ぽつ、と小さな音をたてて、床を雫が濡らした。





menu // back //next


06.08.31 // 加筆修正 07.07.16


inserted by FC2 system