射し込む光に意味などない。
わかっていても、重ねてしまう。





10 . 斜陽




「すいませんでした。失礼します」
深々と一礼し、体育教官室から出てきた裕哉が見たのは、扉の前で屯するバレー部員の面々だった。
「おい、佐久間どーいうことだよ!」
「永田! 声でけぇよ、監督まだ中にいんだろ」
「レキュラー落ちって、マジかよ!?」
小声で諌める葛西をよそに、永田は裕哉に詰め寄った。

青葉ノ森との練習試合。
午後の第一、第二試合を黙って欠席した裕哉は、試合後、監督の曽我に体育教官室まで呼び出されていた。

「裕哉……」
明らかに心配そうな声色の真樹が、彼の顔を覗き込んでいる。
「聞いてたのか」
小さく溜息をこぼしながら、呟く裕哉。
「バカやってんじゃねーよ! 何で理由言わねぇんだよ!? そうすれば監督だって、」
「永田」
裕哉の簡潔な呼びかけに、捲くし立てていた永田も口をつむぐ。
「お前らにも、迷惑かけた。悪い」
「佐久間……」
「でも」
深々と下げていた頭を上げ、正面から永田を見据え、裕哉は言った。
「聞いてたんだろ? あれが全部だ。他に言うことはねぇよ」
有無を言わさぬ雰囲気に、永田も葛西も、押し黙る。
「葛西」
「な、何?」
「代役、サンキュ。悪かったな」
「あ、あぁ、いや」
しどろもどろに対応する葛西を見届け、裕哉はそのまま体育館のほうへと向かおうとする。
「ちょ〜っと待った」
「そうは問屋が卸さないぞ」
「……三門、大原。どけよ」
行く手を阻むように並ぶ二人を、軽く睨み付ける裕哉。
だが元々、奴らがそんなものを屁ともしないことを、彼も承知していた。
「オレらはアッチの単純コンビと違って、そ〜んな殊勝な態度じゃ誤魔化されないよ〜?」
「『鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス』だ」
「おい、誰が単純だこの!」
「黙っとけ永田。どうせオレらじゃ聞きだせねーって」
「あはは、葛西ちゃん自分わかってんね〜」
「……そうまで言い切られると複雑だ」
ぶつぶつと小言で呟く葛西を尻目に、巧が口を挟んだ。
「おーおーモッテモテじゃん、佐久間」
「ちゃかしてんじゃないよ早瀬。気になんないワケ? お前は」
外野で揶揄う巧に対し、三門が絡む。軽い口調ゆえ勘違いされそうだが、三門もまた裕哉を心配しているのだろう。
「別に〜、いいんじゃねーのー?」
対して、巧は。
「あれだけ言わなかったモンを、ここで吐くわきゃないとオレは思うけどね。誰にだって事情ってぇのはあるんだし?」
ちらり、と裕哉に視線を投げながら、言葉を紡ぐ巧。
裕哉は、それに気づいているのかいないのか、別段表情に変化はない。
「佐久間が決めたんだ。口出しできないだろ、オレ達じゃさ」
「……そういうことだ。悪いな」
巧の言葉に同調し、裕哉は無理矢理二人の間を割って立ち去ってしまった。
「ちょ、待って裕哉!! 失礼します! 裕哉、裕哉ってば!!」
ペコリと頭を下げ、慌ててその後を追う真樹。
残されたのは、二年連中のみ。
「っだぁぁぁ! 結局三門も大原もダメじゃんかよ!」
「悪いな、永田」
「悪くねーよ! てか、一番悪ぃの佐久間だろ!! オレらにもなんもナシかよあいつ!」
ガッと近くのコンクリの壁を蹴り付ける永田。
「永田、壁はやめとけ」
「だってよぉ!」
「気持ちはわかるがな。ただ、わかっていることもある」
憤る永田を静めるように、大原は落ち着いた声音で滔々と語る。
「何にせよ、それ相応な理由があったってことだ。くだらない理由でフけるなんてことは、」
「ありえねぇな、佐久間にゃ」
後を継ぐように、葛西が頷く。
「だーかーら!! そんなんわかってんの!! 俺が言ってんのは、なんで俺らにも何も言わねぇんだってことだよ!」
「カッコつけだろ」
半ば呆れたように呟く葛西。
「同〜感〜。そして極めつけのアホ〜」
「謝るぐらいなら理由まで話していけ、という心境なのは確かだな」
「あら? もしかして大原サン、さりげなくご立腹??」
「ハッハッハ、遠まわしにネチネチといびり倒したいくらいにはな。『鳴かぬなら いびり倒そう ホトトギス』だ」
「爽やか全開でブラックなこと言うなよ……」
三門の問いに、表情と心情が一致していない答えを返す大原。
両者を見つめ、ボソリと葛西はぼやきをこぼした。
「ま〜あ、」
すいっとその細目を開いて、三門は一転鋭い視線を投げかけた。
そう、裕哉が去ってからというもの、沈黙一辺倒だった巧へと。
「誰かサンは妙〜に物分かりよく、佐久間の味方してたけど〜?」
「……なに、オレ?」
「思えば、佐久間に代打頼まれたのも早瀬だったし? 事情がどうのこうのって、やけに庇ってた気がすんのは、オレの気のせい?」
「おい、三門」
にやけた表情を崩さない巧に、回りくどく詰め寄る三門。葛西は、そんな彼をやんわりと諌める。
「何か、知ってんじゃないの、早瀬」
キン、と空気が張り詰める。
不穏な空気が、二人の間に流れ始めていた。
そんな中。
フッ……と、巧が表情を緩めた。
「……だとしたら?」
ガラガラガラ!!
「はいはい、そこまで〜」
破裂寸前の緊迫した空気は、派手な扉の音と、依子の甲高い声によって霧散していった。
「高城……」
「アンタら、声でかすぎ。中まで丸聞こえだっつーの」
そう言ってくいっと親指で指差したのは、先程も出てきた引き戸だった。
「永田、アンタうるさすぎ。しかも壁蹴んな。振動伝わる」
「げ、ヤバ」
「ばっか、伝わるわけないでしょ。んで、葛西、大原。アンタらが止めないでどーする」
「って言われたって……」
「面目ない」
「それから三門。それに早瀬も。アンタらがここでやりあったって、意味ないでしょーが」
はぁ、っと大きな溜息をこれ見よがしにつきながら、依子は二人の顔を順々に見つめ、嘆いた。
「へーへー。ワタシが悪ぅございました〜」
そう言うと、三門は頭の後ろで手を組み、くるりと身を翻し歩いていってしまう。
「お、おい、三門!?」
「本人がいないところで何やっても無意味デショ。それじゃ〜解散、サヨ〜ナラ〜」
 葛西の問いにそう返すと、背を向けながらひらひらと手を振り、そのまま部室棟のほうへ消えていった。
「確かに、な」
「大原まで!」
その声の悲痛さに、大原は少し表情を緩ませながら葛西に向かい合った。
「突き放すわけじゃない。ただ、あの頑固者が『言えない』と言った以上、話す気になるまで待つ他ないだろう」
「『鳴かせてみせよう ホトトギス』はどーした!」
「残念ながら、天下を取ったのは、『鳴くまで待とう ホトトギス』だ」
一見困った表情にも見えるのは、普段の大原が無表情に近いからだろう。
「葛西」
「何」
「今日からレギュラーだろう。いい動きして、せいぜい佐久間を悔しがらせろ」
ぽん、と軽く葛西の肩を叩いて、大原もまた部室棟へと去っていった。
「……ヒネてるわねー、どいつもこいつも」
「同感」
ふぅ、と同時に零れた溜息は、苦労性の葛西と取りまとめる依子だからこそだろう。
「……で、アンタは納得したわけ? 永田」
「納得……」
ずっと俯いていた永田は、ふるふると肩を震わしていた。
「するわけねーっつの!!」
ガンっ、と今度は柱を蹴りつけ、怒りを露にする永田。
「お、落ち着け永田!」
手負いの獣のような永田の様子を、どうにかこうにか宥めようとする葛西。
「一人でカッコつけて片付けちまいやがって!! ケリの4、5発入れて、あのイケメン崩してやらぁ! 行くぞ、葛西!!」
そう一方的に言い捨て、ずんずんと突き進む永田。
向かう先は、宣言どおり裕哉のいる体育館か。
「お、オレもかよ……っ」
渋々ながら、葛西もその後に続く。が、しかし、2,3歩進んだところで振り返った。
「あ、早瀬と高城は?」
「いーからいーから。永田の世話、ヨロシクね。か・さ・い・ちゃん?」
「げ、おま、三門みたいな言い方してんじゃねーよ……」
うんざりした表情のまま、よろよろと葛西も体育館のほうへと歩いていった。
そして残った、巧と依子は。
「……とりあえず、サンキュー?」
「いらないわよ、そんなもん」
 どこまでも、巧の言葉は軽い響きを持っている。
それは得することもあるかもしれないが、先程のような場合は大抵損するだろう。
その真意が、どこにあるとしても。
「てかアンタねぇ、どうして人の神経逆撫でするような言い方しかできないのよ」
「性分ですかね〜?」
「嘘つけ、わざとのくせに」
おどける巧に呆れたような視線を投げつけ、依子は何度目かの溜息をついた。
「デカイ声だったな」
カラリ、と小さな音をたて姿を現したのは、黒いジャージに身を包んだ中年の男。
短く刈られた髪。体育教師の職業柄か普段は歳よりも若く見られるが、それ相応に目元口元に刻まれる皺。四十目前ながら程よく締まった体は、今はジャージの下に隠されている。
「お疲れ様です、監督」
依子が振り向き、頭を下げる。巧も、それに倣い姿勢を正して一礼した。
東葉船橋高校男子バレー部監督・曽我高虎。
彼こそ、癖の強い強豪バレー部を率い、近隣学校にその名を轟かす若き知将である。
「まったくな。お前等には世話を焼かされてばかりだ」
「すみません、監督。自分が力不足なばかりに」
曽我の後ろに控えていたキャプテンの本田が、申し訳なさそうに頭を垂れる。
「いや、お前のせいじゃない」
「そうそう、キャプテンのせいじゃないですよ」
「早瀬」
丁寧語をつけただけで変わらぬ巧の口調に、本田が名を呼び諌める。
「どいつもこいつも我が張ってますからね。ただ、それでも。理由なく練習休むような馬鹿はいませんよ」
真正面から曽我を見つめ、彼はそう言い切った。
「早瀬……」
「それじゃ、お先に失礼します」
ペコリと頭を下げ、巧は足早にその場を立ち去っていった。
彼の背を追いながら、曽我はふっと目元を緩ませる。
「あいつらしいな」
「そうですね」
「……そうですか?」
妙に納得した顔をする二人に、依子は訝しげな視線を送る。
「高城がわからないとは珍しいな。案外、自分と似ていると気づかんのかもな」
「げっ、止めて下さいよ監督。どこが似てるって言うんですか、あのふんわりふわふわフーセン菓子と!」
心底嫌そうに顔をしかめる彼女に、曽我はにんまりと笑みまで浮かべて言葉を続けた。
「そうだな。例えば、外でのあいつらのやり取りをわざと聞かせてから止めに入るところとか、か?」
顎をさすりながら、面白そうに目元を細めて問いかける曽我。
「……あら。何のことでしょう?」
「おい、より」
対して、表情を一変、素知らぬ様子で返す依子。
付き合いの長い本田は、その態度からあながち曽我の指摘が外れていないことを察し、咎めるように声をかけた。
「まぁ、『どいつもこいつも、我が張ってる』もので」
「より!」
「よせ、本田。……まったく、お前等が主力になったら先が思いやられるな」
声を強めた本田をいなし、曽我は軽く溜息をこぼす。
その様子に、依子はニッコリと、満面の微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。幸い、結束力は今回の件で確認できましたし」
「依子!」
「スミマセン」
頭を下げる依子だが、その様子は誰が見ても、申し訳程度だった。
額に手をやる本田に対し、曽我は先程から彼女の様子を面白そうに眺めている。
知将として知られる自分達の監督が、その強面に似合わず、案外面白がりだということを、依子はもちろん把握しているのだ。
しかし。
顔を上げた彼女は、先程とは打って変わったように背筋をピンと伸ばして曽我をしかと見つめた。
「でも、佐久間に、何か事情があったことは確かです。早瀬の真似じゃないですけど」
依子の真っ直ぐな視線に、曽我は腕を組みながら視線を落とした。
「そうだろうな。俺もそう思う。……だが、だからと言って、何もせずにチームに戻すわけにはいかん。しめしがつかないからな。だがそれは、佐久間だからじゃない。三年だろうと控えだろうと、レギュラーだろうと皆同じだ」
「……はい」
「せめて、理由だけでも話してくれれば、もうちょっと違ったんですけどね……」
「そうだな」
本田と曽我、二人の諦めにも似た言葉を、依子は黙って聞いていた。
 ──もしか、したら。
そう、頭をもたげる一つの可能性に、思いを馳せて。



「裕哉! ねぇ待ってよ裕哉!」
足早に歩き去るその背中にむかって、真樹は何度も彼の名を呼び続けた。
納得など、到底できるはずがなかった。
それは、あの場で立ち聞きしていたメンバー誰もが思ったことだろう。
休んだ理由を伝えていれば、もう少し処罰は軽くなったかもしれない。そんなこと、真樹だけでなく、裕哉自身もわかっていたに違いない。
それでもあえて黙り込み、甘んじて処罰を受けた理由。
彼が誰にも告げたくないこと。
そんなもの、真樹にはひとつしか思いつかなかった。
「高須賀先輩、なんでしょ?」
「違う」
何を言っても無視していた背中が、硬い声で否定する。
「やっぱり……」
ぎりっ、と真樹は唇を噛みしめた。
「何でよ! 何であの人のために裕哉がそこまでしなきゃいけないの!?」
「あいつは関係ない」
「あの人が何してくれたの!? 自分だけが傷ついてるみたいに振舞って、裕哉のことなんか見てもいない!!そんな人のために、どうして黙ってるのよ!!」
「真樹!」
堪らず裕哉も足を止め、真樹に向きなおった。
「今だってそう! 何言ったって無視してたくせに、あの人の話になったら反応して!」
「……そんなんじゃねぇよ」
吐き捨てるように掠れた声で裕哉は呟く。
どこまでも変わらない彼の頑なな態度に、真樹は掌をきつく握りしめた。
「あの人は……っ」
彼女の脳裏に、ある光景が鮮やかに蘇る。
「気づこうともしないのに……っ」



『あの、すみません、佐久間いますか?』
真樹は、ぼんやりと聞き覚えのある声に、資料から視線を上げた。
ある日の昼休み。部室で資料の整理をしていた彼女の元を訪れたのは、藍だった。
あまりに意外な訪問者に真樹は一瞬驚いたが、すぐに怪訝な反応を返した。
『……なにか、ご用ですか?』
その態度は決して褒められたものではないだろうと、彼女自身自覚していた。
だが、真樹が目の前の彼女に好意的な感情を寄せられる筈がなかった。
『あ、あの、その、ちょっと、返したいものがあって』
隠そうとしなかったその態度のせいか、しどろもどろに答える藍。
その手に握られた青いタオルを見て、真樹はあぁ、と納得した。
数日前の、水飲み場。
姿が見えない裕哉を探していた時、二人が一緒にいたのを真樹は覚えていた。
彼女の頭に被された、青いタオル。
そっとタオルを被せた裕哉の表情は、今まで真樹が見たこともないほど柔らかかった。
『……ここにはいません』
愛想も何もなく、真樹はそう答えた。
本当は、どこにいるのか、なんとなく見当はついていた。
恐らく、今朝呼び出された女子生徒と一緒にいるのだろう。
ただ、それを伝える必要はないと思ったし、伝えたいとも思わなかった。それだけのことだ。
裕哉の返事をわかっていながら、想いを告げる決意をしたあの子。
今の居場所を失くすことを怖がって、立ちすくむことしかできない自分。
そして。
裕哉の想いを一身に受けながら、それに気付きもしない、この人。
自分や目の前のこの人が、邪魔をすることだけは許されないと、そう真樹は思っていた。
『そっか。わかりました。ありがとう』
『……あの、』
ふわりと微笑を浮かべ踵を返そうとする彼女に、真樹は思わず声をかけていた。
『裕哉のこと、どう思ってるんですか?』
気がつけば、言葉がするりと口をついていた。
『え?』
『仲良いですよね。よくより先輩からお話伺ってます』
『うん、まぁ、去年クラスが一緒だったし。依子と早瀬と4人でよくいたから、かな』
一瞬、その表情が陰るのを、真樹は静かに見つめていた。
『それだけ、ですか?』
『え?』
『ただの友達。そういうことですか?』
知らず語気が強くなるのを、真樹は他人事のように感じていた。
自分が聞いていいことではないことくらい、わかっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。
『ちょっと、違うかな』
言葉を選んでいるかのように、ゆっくりと、彼女は言葉を紡いだ。
『依子とも早瀬とも違う。なんて言えばいいのか、わからないけど……』
そんな後を続く言葉は真樹の耳には入っていなかった。



「真樹」
裕哉の声に、真樹は思わず肩をすくませる。
だが、その表情だけは見逃すまいと強い眼差しで彼の顔を見つめていた。
「悪かった。心配かけた」
抑揚のない低い声。
その無愛想に聞こえる喋り方が、本当は気まずさからくる裕哉の癖だということを、真樹は知っていた。
「裕哉……」
「お前が俺のこと心配して言ってくれてんのはわかってる。でもな」
真っ直ぐに、真樹の目を見つめ、裕哉が言葉を続けた。
「今回のことは俺が決めて無断で試合を休んだんだ。誰のせいでもねぇんだよ」
「だからって……!!」
「話は終わりだ。お前も早く教室行けよ」
ぽん、と軽く真樹の肩をたたき、裕哉は再び踵を返した。
荒げるのではない、それでも力強い声音に、真樹は足を止めた。
「わかってないよ……」
真樹の言葉は、誰にも届くことなく風にさらわれていった。



はぁ……
ガラにもなく大きなため息をひとつこぼすと、藍はぼんやりと窓越しに揺れる緑を見つめていた。
朝練を休むことなどめったにないことだったが、今日だけは、藍も気が進まなかった。
薄暗い教室。
藍は、裕哉の胸で箍が外れたかのように泣いてしまった。
それまで我慢していたもの、裕哉に知られていた恥ずかしさや混乱がごちゃ混ぜになり、次から次へと涙は溢れ止まらなかった。
裕哉は、何を言うでもなく、ただ黙って胸を貸し、頭を撫でてくれていた。
それが、どれだけ自分を楽にしてくれたか。藍はわかっていた。
ただ。
『知ってるんだよ。だから』
『泣いとけ』
「あーあーあー」
はっきりと耳に残る、低くぶっきらぼうで、でも温かな声。
大きな、節くれだった手のひら。
あの時のぬくもりをまざまざと思い出し、藍は頬を染めて俯いた。
情けないところを見られてしまっただけではない恥ずかしさが、藍の頬を熱くしていた。
だからこそ、できる限り顔を合わせる時を遅らせようと、朝練を休み教室に来たのだ。
いつもなら、練習を切り上げている時間だ。
ちらり、と時計を見上げて藍はまたひとつ溜息をついた。
「ねぇ聞いた?」
「聞いた聞いた。びっくりだよね」
「あ、おはよー藍。今日早いね?」
「おはよ」
「おはよー。あ、ねぇもしかして藍なら何か知ってるんじゃない?」
席について荷物を置くなり、すぐさまクラスメイト二人は藍の席を囲んだ。
「へ? なになに?」
「うん、あたしたちもさっきそこでバレー部が話してるの聞いたんだけどさ」
続けられた言葉に、藍は教室から駆け出していた。
窓の外の大木は、風をうけてその緑葉を散らさんばかりに揺らしていた。



「いつまで、続けるの?」
絞り出すように出された言葉は、今までとは違い弱々しい声音だった。
様子の違う真樹に、裕哉は先を歩いていた足を止めた。
「いつまで、後ろ姿見てるの?」
俯き呟く彼女の表情は、裕哉からは見えなかった。
ただ、その華奢な肩は、かすかに震えていた。
「真樹……」
裕哉は彼女の元まで歩を進め、震える肩に手を伸ばしかけた。
だが、少しの逡巡の後、その手は真樹に触れることなく降ろされた。
「何も言わないで、必要な時だけ支えて、甘えさせて!あの人はずっと気付かないよ!自分と、自分の中にいる人しか見ない! 裕哉はそれでもいいって言うのかもしれないけど、そんなのおかしいでしょ!? そんなの優しさでもなんでもない!! 困らせたっていいじゃない! 傷つけて何が悪いの!? 好きな人に……、好きな人に好きって伝えて、何が悪いのよ!!」
堰を切ったようにまくしたてる真樹。その瞳に滲む涙を見せないように、彼女は顔を伏せた。
「ずるいよ……っ!!」
裕哉の腕を掴み揺さぶりながら言う真樹の声は、酷く掠れていた。
まるで、喉の奥底から搾り出したかのように。
彼女自身が痛めつけられているかのように。
初めて聞く彼女の声音に、裕哉は眉をしかめて俯いた。制止も抵抗もせずに。
男の、しかも部活で鍛えた体がこんなことではびくともしないのはわかっているはずだろう。
それでも真樹は揺さぶる力を緩めようとはせず、更に力を強めた。
「……そうだな」
そっと、自分を掴む彼女の腕を掴みながら、裕哉は力なく呟いた。
「お前の言うとおりかもしれない。俺は、結局は怖がって逃げてるだけなのかもしんねぇな」
静かに、自分の想いを告げていく裕哉に、真樹は伏せていた顔をゆっくりとあげた。
「でも、関係ねぇんだよ。そんなことは」
その一言で、真樹はピタリと動きを止めた。
「どんなに卑怯でも、情けなくても、構わない」
あまりに強くシャツを握りすぎたせいで血の気を失った真樹の指は、裕哉の脳裏に別の手を思い出させた。
藍の、掌を固く握る癖に、裕哉は気づいていた。
その仕草が持つ意味すらも。
微笑むその表情とは反対に、その手はいつでも悲鳴をあげていた。
気づいていながら、裕哉にはどうすることもできなかった。
わかっていたのだ。
目には見えない涙しか見ることを許されない自分には、それを取り払うことなど出来ないと。
その掌を解放できるのは、ただひとりだけなのだと。
それでも。
「俺がしたいからする。それだけだ」
小さく笑って、裕哉は言った。
「──そんなに、あの人が好きなの?」
震えるような小さな声で、真樹が呟いた。
「自分の気持ちよりも、あの人のほうが大事なの?」
シャツを握る細い指が、徐々に力を失くす。
「あたしの気持ち知ってて、それでも……!」
ぱたた、と小さな音をたて、地面にいくつもの雫が落ちた。
音を成すことができなかった言葉を、彼に伝えるように。
「あぁ」
既に形だけになっていた真樹の手を、裕哉はそっと押し返す。
支えを失った彼女の腕は、重力のまま落ちていく。
がさり、と植え込みが大きな音をたてた。



「……好きだ」



真っ直ぐな言葉。
それは、待ち望んでいたものとまったく同じ響きを持つのに、今の真樹には磨きぬかれた刃物でしかなかった。
「──っ」
細い指が、裕哉のネクタイを強引に引っ張る。
豊かな黒髪がふわりと舞う。
傾いだ体に重なる、小さな影。
「!?」
唇に触れた柔らかな感触に、裕哉は真樹の肩を掴んで引き離した。
涙が一粒筋をなして、白い頬を流れていく。
それを隠そうともせずに、真樹はただ裕哉を見つめた。
「真樹」
地面に染み込んだいくつもの雫の跡が、靴底に踏み消された。
「俺が好きなのは……お前じゃない」
「……」
色を失っていく彼女の顔は、それでも作り物めいた綺麗さを持っていた。
わかっていたことだ。ただそれを口にされた、それだけのこと。
それだけのことなのに。



きつく瞳を閉じた真樹は、それでも抑えきれずにその場を立ち去った。
裕哉は、その後ろ姿を目を逸らすことなく見つめ続けた。
陽の光が、ふたりの間を分かつように射していた。



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09.08.14


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