風に舞う花びらの色が鮮やかすぎて。 他には何も、目に入らない。 12 . 晴嵐 「……ほら、顔あげて」 花壇に座り、でかい図体を丸めて俯く男に、依子はもう何度目かの声をかけた。 「……」 「アンタね、いつまでも変な意地張ってでかい図体丸めてんじゃないわよ。仕舞には蹴り飛ばすわよ」 「うるせぇよ」 くぐもった声は、かろうじて依子の耳に届いた。 「……」 「……あーあ、何が悲しくてアンタとひなたぼっこせにゃならないのかしら。どーせするなら本田先輩とひなたぼっこしたかったわー」 はぁ、と大げさにため息をこぼすと、彼女は左手に抱えた救急箱を両手で持ち直すと、ストン、と勢いよく彼の隣に座った。 「……聞かないのか?」 「聞いたら話すわけ?」 「……」 「話す気ないくせに、どの口が言ってんのよ」 「悪い」 「謝るくらいならやるなっつーの。……はい、さっさと顔出す」 救急箱から手際よく消毒液やピンセットを取り出した依子は、問答無用に裕哉の顎をひっ掴んだ。 「つっ」 「あ〜らゴメンなさいね? 手元が狂っちゃって」 「……」 しらじらしくも、堂々と言ってのける彼女の様子に、裕哉は眉を顰めたが、何を言うでもなく押し黙る。 「ふーん。ちょっとは反省してるみたいね」 「……やることが陰険なんだよ」 「なんか言った?」 「言ってねぇ」 無愛想に吐き捨てると、裕哉は無言を貫いた。 「……真樹ね」 口元に押し付けていた綿をビニール袋に捨てた依子が、視線を手元に落としながら静かに呟く。 「言ってたわよ。自分が悪いんだって」 「……」 どがぁっ 二度目の鈍い音がして、吹っ飛んだのは巧のほうだった。 突如昼休みに起きた、バレー部エース同士のケンカ騒動。 いきなり裕哉を殴りつけ、その襟首を掴みあげ何事かを言っていた巧が、今度は裕哉に殴り飛ばされ体を押さえつけられていた。 『テメェが……っ!!』 絞り出すような掠れた声と共に、更に振り上げられた拳。 それを止めたのは、その場にいたバレー部の面々だった。 『止せ!!』 『離せよっ!!』 『落ち着けって佐久間!! お前自分が何してっかわかってんのか!?』 男3人がかりで押さえつけ、どうにか引きはがしてひとまず事なきを得たが、それでも険悪な雰囲気が二人の間に横たわっていた。 『裕哉!!』 そこに飛び込んできた、甲高い声。 未だ怒気を露わにしていた裕哉を止めたのは、その声だった。 『菅原……?』 『真樹ちゃん……』 『早瀬…先輩は……、悪くないんです……っ』 『真樹、あんた……』 『あたしが……』 息も絶え絶えに説明する真樹の言葉は、静まりかえった体育館に静かに響いた。 だが、最後まで聞かずに裕哉が立ち上がる。 『おい佐久間!』 『……悪い』 呼び止める永田にようやく聞こえる声で返すと、そのまま裕哉は体育館を出て行った。 『裕哉!!』 『……真樹』 追いかけようとする真樹を制したのは、依子だった。 『より先輩……』 『あんたはアッチの手当てしてやって』 そう言い、三門と葛西の尋問に無言を貫きとおしている巧に目をやる。 『先輩、あたしが悪いんです。早瀬先輩は、あたしをかばって……裕哉も、』 『落ち着きなさい。こっちは任せて。後でゆっくり、ね』 口元をぎゅっと引き締めた表情のまま、小さく頷く真樹。 その華奢な肩をぽん、と軽く叩き、依子は救急箱を片手に裕哉を追いかけてきたのだった。 「……関係ねぇよ」 「え?」 「真樹のせいじゃない」 「……そう」 それ以上何も聞かず、依子は絆創膏を差しだした。 裕哉は黙ってそれを受け取ると、ようやく聞き取れるような小さな声で呟いた。 「お前、知ってたんだろ?」 「何を?」 「噂のこと」 「……マネージャーなら何でも知ってると思ってるバカが多いみたいでね」 ハン、とせせら笑う依子の表情には、珍しく嫌悪感がありありと刻まれていた。 噂を聞きつけた野次馬が、真偽のほどを確かめようと彼女の元に押しかけるのは、何もこれが初めてのことではなかった。 「悪かったな」 「何よ。アンタが何か悪いわけ?」 「……高城」 「アンタと真樹がキスしてようとしてまいと、そんなのどうでもいいわよ。アンタ達二人の問題だし、謝ることでもなんでもないわ」 「……」 「あたしがアンタに対して怒ってんのわね。この前の無断欠場もそうだけど、アンタが、……佐久間が、あたし達に何の相談も言い訳もしないことよ」 パタン 救急箱の蓋が閉められた音が、やけに裕哉の耳に響いた。 「……手当終了。そんじゃ、あたしは戻るから。アンタもほどほどにしなさいよ」 何事もなかったように立ち上がると、依子はさっさとその場を後にした。 裕哉は、彼女の後ろ姿を見送ることすらできず、ただ足元を見つめていた。 「すみませんでした」 「ん?」 「今回のこと」 氷水を詰めたビニール袋をタオルでくるみ、差しだしながら真樹が所在なげに呟いた。 今、体育館にいるのは巧と真樹だけだった。 裕哉と依子が去った後、巧に事の経緯を聞き出そうと三門と大原が詰め寄ったが、巧は案の定、頑として口を開かなかった。 普段であれば、だんまり程度でひきさがる二人ではなかったが、今回は勝手が違った。 真樹である。 巧に問いただす度に謝り続ける真樹があまりに必死で、さすがの二人もそれ以上追及することができなかったのだ。 「なんで?」 「だって……」 「別に、菅原のためじゃないよ」 「わかってます。でも、」 「どちらかと言うと、謝んのはオレだと思うけど」 頬にあてていた水袋が離れ、からりと氷が音をたてた。 「なんでですか?」 「騒ぎ、大きくしちゃったじゃん、オレ」 空いている手で頭をがしがしと掻きむしり、困ったようにへらりと眉尻を下げる巧。 めったに見せないその表情に、真樹は内心驚いた。 「あーあ、わかってんのになー。ゴメンなーほんと」 耳を垂れた子犬のような表情に、真樹は小さく笑みを浮かべた。 屋上でバスケ部の一年生にすごんだ時とも、問答無用で裕哉を殴り倒した時とも、まるで別人のようだった。 すべては、真樹を、そして何より裕哉を思っての行動だと、彼女は何となくわかっていた。 屋上で耳にした噂は、だいぶ誇張がされていた。 一部事実はあったものの、明らかに裕哉や真樹をおとしめる、下卑たものだった。 感情に任せての行動が、誰かに見られていたことにも驚いていたし、思わぬ方向に大きく育ってしまっていることにも動揺して、あの場では真樹は動くことすらできなかったけれど、少し落ち着いた今、思い返してみれば、怒りがふつふつと湧いてくる内容だった。 だが、当事者である真樹本人よりも早く、激しく怒りを露わにしたのは巧だった。 優しいけれど、どことなく掴めない人。 そう感じていた巧が見せた、真っ直ぐな怒り。 しかも彼は、事実を確認することすらせず、好き勝手に噂をする彼らの前に出たのだ。 今ならわかる。 あれは、その場にいた真樹を慮っての行動だったわけではない。 真樹はもちろん、裕哉が。そんなことをする筈がないと。 そう、巧自身が思っているからこその、行動だったのだ。 掴めない人。 そう思っていた彼が、途端に身近に感じた。 「……ほんとですね」 「へ? いっつ!!」 消毒液を染み込ませた綿を遠慮なく押し付けられ、思わず巧が悲鳴を上げた。 だが真樹は、ピンセットの手を緩めない。 「いっ……! ま、真樹チャン痛い……っ!」 「謝るなら、裕哉殴ったこと謝ってください」 平然と言い放つ彼女の姿に、巧は目を見開いた。 直後、くつくつと上下する肩。 真樹はじろりと目の前の男を睨みあげた。 「何、笑ってるんです?」 「……や、菅原さ」 「何ですか」 「あの馬鹿には勿体ないなー」 けらけらと笑いながら、巧は目尻に浮かんだ涙をぬぐう。 「なんですか、それ」 「いいコだね〜ってこと?」 「おだてても手加減しませんよ」 「お世辞じゃないよ」 「……それでも」 ピンセットを脇に置き、絆創膏を巧の口唇の端にぺたりと貼りつけながら、真樹はふわりと笑った。 「その馬鹿しか、欲しくないんです」 その微笑みは、屋上で見せた微笑みとは異なり、どこかふっきれたものだった。 固く閉ざされた体育館。 その周りには、既に数人の生徒が集まっていた。 昼休みの騒動は、早くも噂として飛び交っていた。 好奇心か、野次馬根性か。真偽を確かめようと中を窺おうとしているのがすぐ見てとれた。 少し離れた位置でその様子を見ていた藍は、自分もそんな一人だと気づき踵を返そうとした。 「……藍?」 名前を呼ばれ振り返ると、そこには救急箱を片手に抱えた依子が立っていた。 「依子……」 「どうしたの? ……って、聞くまでもないか」 ちらりと人だかりを見やり、依子はひょいと肩をすくめた。 そのまま踵を返し、部室棟へとすたすたと歩いていく。 藍はその背中を小走りで追いかけた。 「噂になってる」 「みたいね。まったく暇な連中ばっかりね」 「……佐久間、大丈夫なの?」 「平気よ。デカイ図体丸めてだんまりだけど。傷自体は大したことない。早瀬も似たようなもんでしょ」 「……良かった」 小さく呟かれた言葉に、依子は振り返った。 「藍、アンタ……」 「え?」 ざわり、と風が熱をはらむ。 彼女が感じたひとつの疑問は、そのまま風に呑まれていった。 |