淡い霞は、記憶の中に。
揺れる緑は、視界の中に。
確かな想いは、そう、目の前に。





13 . 沈黙 




「──い、藍?」
「……え?」
「もうホームルーム終わってるよ?」
「……あ」
友人の呼びかけにふと辺りを見渡せば、大人しく席についているのは彼女ひとりだけだった。
「あ、じゃないよー! 最近藍、ぼーっとしすぎ。事故とか怪我とか気をつけてよ〜」
「あはは、ゴメンゴメン」
へらり、と力なく微笑んだ彼女は、ちらりと視線をさまよわせた。
視線の先。
そこにあるのは、既にもぬけの殻となった席だけだった。
「早瀬くん、まだ部活謹慎中なんだっけ」
「……らしいね」
「佐久間くんといいコンビだったのにね〜。まさかケンカなんて」
「……」
裕哉と巧のケンカ騒ぎは、あっという間に全校生徒の知るところとなった。
それもそうだろう。仮に周りがどれだけ否定しようとも、二人の顔には言い訳のしようもない傷が残っているのだ。
騒ぎはすぐに教師の耳に入り、バレー部顧問の曽我によって、二人の処罰は下された。
1週間の部活謹慎。
それが、曽我の決断だった。
ケンカの理由を、二人が口にすることはなかったという。
そのことが、更に噂に拍車をかけ、ケンカの理由について様々な憶測が飛び交っているのを、藍も知っていた。
まるで、これまでの噂など掻き消すように。
カタン
藍は静かにその場に立ち上がった。
「わたし、そろそろ部活行くね」
「え、あ、うん」
「声かけてくれて、ありがと。じゃぁまた明日」
突然の切り出しに戸惑う友人をよそに、藍は先程と同じ笑みを浮かべて足早にその場を立ち去った。
「……ちょ〜っと、強引だったかな」
ぽつりと呟き、藍はくっとひとつ背伸びをした。
ケンカの詳細について、藍は何も知らずにいた。
その場に居合わせたバレー部員は決して口を割ろうとはしなかったし、藍も彼らを問いただすようなことはしなかった。
巧は教室でも普段どおりだったが、ケンカのことを聞きに来る連中には、きまって笑顔で「ただ、アイツにむかついただけだよ」と繰り返すのみだった。
その目元がまったく笑っていないことに気づいているのは、きっとごく少数の人間だけに違いない。
──裕哉とは。
ふと、藍は足をとめた。
隣の教室。
開け放たれた戸から見渡せる、規則正しく並んだ机。
まばらになった人影の中に、裕哉の姿はなかった。
ケンカ騒ぎどころか、練習試合を無断欠場し2軍に降格してから、藍は裕哉と顔を合わせていなかった。



引き寄せられた身体。
髪を撫でる、骨ばった手のひら。
触れたぬくもり。
低い、声。



あの時、何も聞かずに傍にいてくれた彼が、こんなことになるとは思いもしなかった。
お礼を言いたかった。
謝ったところで、それを受け入れる裕哉ではないことを、誰より藍自身がよく知っていた。
だからこそ、2軍降格の噂を耳にし、教室を飛び出した。
けれど。



『……好きだ』
柔らかな、声。
見覚えのある、広い背中。
重なり合う、ふたつの影。



藍は、無意識にきゅっと手のひらを握りしめた。
伝えたいことがあった。
聞きたいことがあった。
けれど、今は。
「部活、行かなきゃ」
留まり続ける自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、すぐにざわめきに攫われていった。





バァンッ
白いボールが音をたて、体育館の床を打ち付ける。
勢いそのまま跳ね上がったボール。
しっくりこないのか、二、三度ぷらぷらと手首を振りながら列の後ろへと戻っていく姿を見つめながら、依子はペンを走らせた。
「葛西はまだ、打ち抜く時の妙なクセ直らず、と」
各選手の分析ノートをまとめながら、依子は再び列に目をやった。
いつもと変わらないメニュー。
いつもと変わらない練習風景。
けれど。
「物足んねー」
「! 永田」
ドリンクを片手に、永田は不服そうに吐き捨てた。
「練習は?」
「サボリじゃねーよ! 今日はローテで休憩回すんだと。俺と大原は今休憩中」
「そういうことだ」
抑揚のない低い声に左側を見上げれば、大原が手元のノートを覗きこんでいた。
「ほう。葛西はまだあのクセが直ってないのか」
「そ。手首痛めないか見てるコッチがヒヤヒヤするわよ」
「ははは。一回故障しないとわからないんじゃないか?」
「ちょっと」
「まぁ、アイツ関節が異様に柔らかいからな。そうそう怪我することもないだろうが」
「……大原。アンタが言うと無意味に黒く聞こえるわ」
「何か言ったか?」
「いーえ、何でも」
表情ひとつ変えず、わずかに笑みを浮かべながら問いかけてくる大原に、依子は呆れ声を取りつくろうことなくそう返した。
「にしてもよー」
ぐいっとドリンクボトルをあおりながら、永田はぐるりとコートを見回した。
「レギュラー二人謹慎中なんだぜ? もっとこう、ガツガツきてもいいと思わねー? つっまんねーの」
明らかに苛立っている様子に小さくため息を吐きながら、依子はタオルを投げつけた。
「うお!? ンだよ高城!」
「何だよじゃない! ちょっと口が過ぎるんじゃないの? ウチの部員で、レギュラー入り目指してない人間がいるって、本気で思ってるワケ?」
「……けっ」
「自分がイラついてるからって、しょーもないこと言ってんじゃないわよ」
「……悪かったよ」
口を尖らせながら、永田は空になったドリンクボトルをカゴへと放り投げた。
二人のやりとりに口を挟むでもなく、ただ静かに見つめていた大原だったが、ふと辺りを見渡して口を開いた。
「確かに永田は言いすぎだがな。……あいつらがいなくて物足りないのは、事実かもしれないな」
「あ?」
彼の視線。そこには、謹慎中の二人の穴を埋めるように入った2軍選手の姿があった。
「……どーしたのよ。珍しく素直じゃない」
「心外だな。俺は常に正直だが?」
「少なくとも、佐久間のバカみてーに何でもかんでも黙りこまねーし、早瀬のアホみてーに回りくでーことはしねーよな」
にしし、と笑い飛ばしながらこの場にいない二人に毒づく永田。
「あいつらはああ見えてカッコつけの気にしぃだからな。仕方ない」
だが、そのあとに続いた大原の言葉に、永田は目を丸めた。
「え、なになに、大原マジでどーしたの? 今日もしかしてホワイト大原?」
「何よそのホワイト大原ってのは」
「いやだって! 大原が! 嫌味大魔王みてーな大原があんなこと言うかよ!」
「断言したな、永田。後で覚えとけよ」
「うん、忘れる!」
「……バカ」
かけあい漫才のような二人のやりとりにげんなりし、容赦なく切り捨てる依子。
そんな彼女の様子を気にもせず、相変わらず同じ顔つきで大原が口を開いた。
「菅原は平気か?」
「……ちょっとだけ、落ち込んでるわね。でも気にするほどじゃないわ」
監督の傍でデータ整理をしている真樹に視線を向けながら、依子は呟いた。
あの騒ぎの後。
依子は女子部室で、真樹がぽつぽつと話すのをただ聞いていた。
真樹は、自分の責任だからと永田たちにもきちんと説明をしようとしたが、彼らがそれをやんわりと拒否した。
真樹の様子と、一部で流れていた裕哉と真樹の悪質な噂から、このケンカ騒動の原因が何だったのか、皆薄々勘付いていたのだろう。
あえて真樹に、もう一度話をさせるのを止めさせたかったという想いもあっただろう。
三門も大原も、なんだかんだと言いながらその実後輩には甘いことを、依子は知っていた。
「そうか」
「自分のせいだ何だって言ってたって何も解決しないのを、わかってんのね。男共に比べたらよっぽどあの子のほうがしっかりしてるわ」
「手厳しいな。それはどっちのことを言ってるんだ?」
「どっちもよ。気づいてないようだから言うけど、あたし、ここ一連の騒動結構頭きてんだから」
カチカチとペンを強く打ちつけながら、依子は珍しく苛立ちを露わにした。
「佐久間は佐久間で、なーにカッコつけてんだか何でもかんでもだんまりで、全っ然吐きだそうとしないし! 黙ってりゃ他に迷惑かかんない思ってんなら大きな勘違いだっつーの! 早瀬は早瀬で意味深な発言ばっかして引っ掻き回してんのかと思ったら意外や意外、佐久間のことフォローするっぽい発言して、なんだちょっとイイ奴なんじゃないの、とか思ったら今度は右ストレートって! どんだけだっつーの! あーむかつく!!」
「おーコワ」
「……永田」
からかい混じりの永田の言葉を、大原が制す。
じろり、と元々つり気味の目を更につりあげて、依子は永田を睨みつけた。
「それに……!!」
そこまで言い、依子は急に口を噤んだ。
「それに?」
目ざとく彼女の様子を目に留めた大原が、疑問符を浮かべる。
「……なんでもないわよ」
「どうも、お前のほうが堪えてるみたいだな」
「悪かったわね!」
「別に、悪いとは言っていないが」
「……」
「マネージャーも大変だな。……さて、行くか永田」
ぽん、と依子の肩に軽く手を置いた大原は、そのまま永田に声をかけコートへと戻っていた。
「大原!」
遠のく背中に声をかけると、彼は顔だけこちらに向けた。
「セクハラ!」
にやり、と浮かべた笑みは、東の横綱の異名をとる、辣腕マネージャーの笑みだった。
それを見て、ひらりと手を振る大原。
だがそこに、永田の甲高い声が飛んだ。
「あー、高城浮気だ浮気!! キャプテン泣くぞ〜」
「黙れ野ザル!!」
「いや〜んこわ〜い」
依子の怒声などさらりと流し、ケラケラと笑いながら、永田は軽い足取りで大原の後を追っていった。
「……ったく」
パタン、とノートを閉じ呆れ声をあげた依子の表情は、その声とは反対に温かいものだった。
「より」
「あ、本田先輩。お疲れさまです」
襟ぐりを引っ張り上げ、口元の汗をぬぐいながらこちらへやってきたキャプテンに、依子はタオルとドリンクを差しだした。
「ん、さんきゅ」
笑みをうかべ、受けとる動作はいつも通りだったが、どこか違和感を感じて依子は首を傾げた。
「どうかしました?」
「いや……」
そう告げる彼の目元がふっと緩むのを、彼女は見つめていた。
「少し、すっきりしたみたいだな」
「え?」
予想外の言葉に、依子はきょとんとした顔をした。
その表情に、本田はクスリと小さく笑みを浮かべた。
「眉間のシワが、一本減った」
「本田さん!」
パっと頬を赤く染めた依子に、本田はカラカラと笑い声をあげた。
「あいつらのことか?」
「……まあ、ね。でも部活とまた別のことだから」
心配しないで、と微笑む依子に、本田は肩をすくめると、ぽんぽん、と彼女の頭を優しくたたいた。
「気負いすぎるなよ」
キャプテンとして厳しくチームメイトに接する時とは異なる、柔らかな表情。
二人きりの時に見せるそれに、依子は黙ってこくりと頷いた。
「よし!」
ニカッと笑みを浮かべると、本田はタオルとドリンクのボトルを依子に託し、コートへ戻って行った。
部活中にはめったにキャプテンとマネージャーの立場を崩そうとしない彼の、珍しい行動。
依子は託されたタオルをきゅっと握りしめた。
「気負いすぎるな、か」
先程、怒りにまかせて思わず口をつこうとしたことが、自然と脳裏をよぎる。
あのケンカ騒動の時に芽生え、確かめられずにいる、ひとつの疑問。



『……良かった』



聞き取れるかどうかというくらいに、そっと、こぼれた言葉。
うねりをあげた風に視界をとられ、彼女の表情を見ることは叶わなかったけれど。
その響きには、依子自身、覚えがあった。
「……引っ掻き回してたのは、あたしかもしれないわね」
ぼそりと呟いた言葉は、誰に届くことなくひっそりと落ちて行った。





「……で?」
空には早くも星がちらつく中、玄関の門にもたれて裕哉が低く呻いた。
「ひどい。そんな、あからさまに嫌そうな顔で『で?』とか言わなくてもいいじゃないですか、佐久間センパイ」
「そういう話し方すんな。高城になるぞ」
「何それ」
コロコロと笑みをこぼしながら、真樹はくるりと身を翻し、裕哉の横に並んだ。
「より先輩のこと、キライじゃないくせに」
「バカじゃねえの?」
「照れてる」
さすがは幼馴染、ひるむことなく遠慮なく言い放つ様子に小さくため息をこぼすと、裕哉は空を仰いだ。
「で? ウチまで来るなんて、それ相応のことがあったんだろうな?」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹の気遣いに、真樹は小さく笑みを深めた。
「裕哉が考えているようなことはなんにもないよ」
「あっそ」
「……心配した?」
「してねーよ」
「嘘吐き」
容赦のない真樹の言葉に、裕哉は髪を軽く掻きむしった。
「そんなに困らなくてもいいのに」
「困ってねーよ」
「……謝らないよ、あたし」
同じテンションで紡がれた言葉に、裕哉は思わず息を呑んだ。
「間違ったこと、言ったと思ってない。あんな噂になるとは思わなかったし、まさか乱闘騒ぎになるとは思ってなかったけど。……悪いことしたと、思わないから」
きゅっと、自分の制服の袖を握りしめる真樹の仕草に、裕哉は気づいていた。
「──バーカ」
言い放たれた言葉に、真樹は裕哉を見つめた。
視線の先にいた彼は、わずかに目元を緩めていた。
いつもと変わらない、光を湛えて。
「当たり前のこと、言ってんじゃねーよ」
「……ん」
真樹は、表情を隠すようにわずかに俯く。
さらり、と長い黒髪が肩を滑り落ちて行った。
「真樹」
静かに、裕哉の声が降ってくる。
「ありがとうな」
夜でよかったと、この時真樹は心の底から思った。
ぽつり、と落ちた涙は、夜の濃紺に吸い込まれていった。







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10.04.06


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