忘れぬように。 惑わすように。 狂い色付く、その花の名は。 14 . 徒花 位置についてから、一歩を踏み出すまでの、沈黙。 藍はそれが好きだった。 瞼を閉じて、聴覚を磨ぎ澄ます。 そこには何もなく、ただ自分の心音が小さく鳴り響くのみ。 時間にして数秒。 だがその瞬間は間違いなく、無心でいられる瞬間だった。 パァン 音に引っ張られるように、踏みしめる一歩。 開ける視界。 肌を撫でる風。 風を切る感覚は、最高に気持ちがいいはずだった。 250メートルを走り終え、ゆっくりと速度を緩めた藍は、握りしめていたタイマーに目を落とした。 「……やっぱりか」 刻まれた数字に小さくため息をつきながら、倉庫前のベンチに置いてあるノートを手に取る。 書かれているタイムは、この数日、日に日に落ちていた。 朝の自主練習を休んだ、あの日。 あの日から、藍は調子を崩していた。 怪我をしているわけではない。スランプというほど、大げさなものでもないが、なんとなく、藍は理由がわかっていた。 何よりも、一人になれる筈の時間。 だが、最近は走っていても、頭がクリアになる感覚とはほど遠かった。 理由は、わかっている。 わかっているのだ。 藍は、頭からタオルをかぶり、ベンチに乱暴に腰掛けた。 「おーう、珍しく荒れてんなー」 「!」 思いがけない声に、藍はびくりと肩を跳ね上げた。 ずるり、とタオルが頭から滑り落ちる。 そろり、と声のした方に顔を向ければ。 「はよ」 部室棟の通路の端にしゃがみ込み、こちらを笑顔で見下ろす巧の姿があった。 「よっと」 彼は、藍の胸あたりまである高低差を物ともせず、階段5段分の高さをひとっ飛びで飛び降りた。 「自主練? 相変わらずだな〜。にしても随分早くない?」 「なんか、目が覚めちゃって」 「お? ついに高須賀も恋煩いか?」 にやり、と笑みを深めて巧は遠慮なく藍の隣に腰掛けた。 「そんなこと」 「ふ〜ん?」 目を細めた巧は、自然な動作で手を伸ばす。 頬が、じんわりと熱に包まれる。 「じゃあこのクマは、何のせいなのかな?」 節くれだった指先が、するりと藍の目元を撫でた。 ゆっくりと、一度だけ落とされた瞬き。 直後、藍は思い切り後ずさった。 「な、ななななな!?」 「ははっ! そんな思いっきり後ずさんなくても。オレちょっと傷ついちゃうな〜」 「早瀬!」 「ゴメンゴメン。もうしないよ」 くすくすと笑いながら、両手を軽く挙げて降参のポーズをとる巧に、藍は思わずため息をついた。 「んで? 朝早く目が覚めちゃって、自主練しても珍しく荒れちゃってる藍チャンの、不調の原因はなんなのさ?」 「それは……」 そこで、藍は口をつぐんだ。 陽の光を浴びた緑が、風をはらんでざわりと揺れる。 巧はわずかに目を細めた。 俯いていた藍は、それに気づくことはなかったけれど。 「当ててみようか?」 「え?」 顔をあげた藍は、思った以上に巧の顔が近くにあることに息を呑んだ。 あっという間に詰められた距離。 そっと耳に、寄せられた唇。 「……アイツのせい?」 「え……?」 誰のことを告げているのか。それは、すぐにわかった。 身を離し、立ちあがった巧。 開けた視界に映る人影に、藍は目を見開いた。 「佐久間……」 いつから、そこにいたのか。 部室棟の入り口。 藍の位置からはちょうど巧の影で隠れてしまう位置に、裕哉が立っていた。 考えれば、わかることだった。 始業には到底早いこの時間に、どうして部室棟に巧がいたのか。 耳奥で、葉音がざわめく。 「さく……っ!」 がたん、と音をたててベンチがはねる。 裕哉は、絡まる視線を断ち切るように顔をそむけた。 そのまま無言で立ち去る背中に、藍は言葉を失った。 「さて。オレも朝練に参りますか」 くっと背伸びをし、藍にちらりと視線を向ける巧。 だが、あっけらかんとした巧の言葉も、彼女の耳には届いていなかった。 タンッ、タンタン…… ブロックに遮られたボールは、彼の脇をすり抜けてコートへと落ちて行った。 「プレーが随分と雑だな。暫く休んでいたせいで、バレーの基本すら頭から零れ落ちているんじゃないのか?」 「……るせ」 ネット越しに告げられる、抑揚のない辛辣な言葉に、裕哉は小さく吐き捨てた。 「集中できないなら今日は下がれ。自主練で中途半端なプレーして、怪我でもされたらコッチが迷惑だ」 「おい、大原」 葛西がやんわりと諌める。 遠慮のない言葉に、裕哉はぐっと奥歯を噛みしめた。 大原の言葉が事実であることを、誰よりも彼自身がわかっていた。 「悪い。ちょっと抜けるわ」 ぐいっと襟元のシャツで顔をぬぐい、裕哉はコートを出て行った。 「おい、佐久間!」 「んじゃ次オレ〜」 「お、おい三門!」 葛西の戸惑う声を背中で聞きながら、裕哉はコートから少し離れた壁にもたれた。 布越しに、ひんやりとした壁の温度が広がっていく。 「ぶった斬られてたわね〜、佐久間サマ?」 既に制服に着替え終えた依子が、ひらひらとタオルをちらつかせながら、裕哉の元へと歩み寄った。 「……悪いな」 一言言い返すでもなく、仏頂面のままおとなしくタオルを受け取る彼の姿に、依子は怪訝な表情を浮かべた。 「何よ、おとなしいじゃない、何サマ俺サマ佐久間サマが。気持ち悪い」 「高城」 「な、何よ」 「……悪かったな」 ぽつり、と呟いた言葉に、依子は目を丸くした。 「……おい」 「ん?」 「コレは何の真似だ?」 依子は、右の手のひらを彼の額に、もう一方を己の額に当てていた。 「いやぁ、熱でもあるんじゃないかしら、と思って」 「ケンカ売ってんのか?」 「暴力はんたーい」 両手をひらひらと振りながら、とん、と軽い音をたて、裕哉の隣に並ぶ彼女。 そのからかうような口調とは対照的に、その表情は、穏やかなものだった。 「……午後の試合に間に合わないことは、わかってた」 不意に語られた言葉が、彼がレギュラーから降格することになった日のことを告げているのだと、依子はすぐにわかった。 「だから早瀬に言ったんだ。葛西を出してくれって」 「……」 「練習試合だからってナメてたわけでもねぇし、レギュラーだからってふんぞりかえってたわけでもない」 あの日の後、一部のチームメイトが彼の無断欠場を、そう断じていることは、依子も知っていた。 「もちろん、真樹も関係ない」 「……知ってる」 時間になっても戻ってこない裕哉に、誰よりも動揺し、顔色を失った真樹の様子を、彼女はすぐ傍で見ていた。 「ただ……」 始業時間まであと十数分だというのに、変わらずコートを駆け回るチームメイトを見つめながら、裕哉は口を噤んだ。 脳裏をよぎるのは。 自分の胸に顔を埋め、声もなく肩を震わせていた、彼女の姿だった。 ぐっと、握られた手のひら。 裕哉のその様子に、依子はため息をついて口を開いた。 「いいわよ、もう」 「……」 「黙秘主義の佐久間サマにしちゃ、よくできたほうなんじゃないの? 大原と三門に言ったらそれこそ卒業するまでネタにされそーなくらいにはね」 「……うるせーよ」 ぐいっと、ドリンクをあおる裕哉。 「で? もういっこの方は?」 「……」 「ちょっとまさか、まだ早瀬と和解してないわけ?」 「呼んだ?」 ひょい、とタイミングよく入り口から顔を出す巧。 こちらもすでに着替えていた。といっても、Yシャツのボタンは全開で、真っ赤なTシャツが丸見えの状態だったけれど。 「……なによアンタ、妙に機嫌よくない? 気持ち悪っ」 ニコニコといつになく満面の笑みを浮かべる巧に、依子は顔をしかめた。 「ん〜? ちょ〜っとね〜」 「……」 依子の毒に表情ひとつ変えず、二人の傍に歩み寄る巧。 ちらり、と視線を裕哉に送るが、裕哉はコートを見たまま無言を貫いていた。 二人の様子に、依子は聞かせるように大きなため息をつき、呆れ声をあげた。 「いい加減手打ちにしときなさいよ!」 「ん〜、それは無理かも」 「アンタねぇ!」 「……じゃあな」 挨拶もそこそこに、その場を立ち去ろうとする裕哉。 「あ、ちょっと佐久間!」 「それよりオレ、高城に相談したいことがあんだけど」 「……何よ」 珍しい言葉に、探るような目つきで問いかける依子。 巧は、にんまりと笑みを深めて言い放った。 「オレが、高須賀のこと好きだって言ったら、どうする?」 「はあ!?」 依子の声が、体育館に響き渡る。 気がつけば、裕哉も足を止めて巧を見つめていた。 「なんだよーいきなりデカイ声出して」 「なんだよじゃないわよ! アンタ、自分で何言ってるかわかってんの!?」 掴みかからん勢いで巧に詰め寄る依子。 「……わかってる」 返されたのは、普段は聞くことがほとんどない、低い声だった。 「わかってるよ」 顔からは、笑みが消えていた。 「……早瀬、アンタ」 「あいつとは別れた」 「っ!!」 「フラフラしやがってって思うかもしれないけど。オレは、遠慮なんかしない」 つい、と視線が移る。 依子の後ろに佇む、裕哉へと。 「他人にも、自分にも」 その眼差しは、射抜くかのように力強いものだった。 「オレは、高須賀が好きだ」 確固たる決意を秘めた言葉に、誰も言葉を返すことができなかった。 |