窓に映る街並みが、左から右へと流れていく。 藍はドアの脇の手すりにつかまりながら、ぼんやりとその光景を見つめていた。 温かな落下点 降りる人を待ってから乗り込んだ車内は、冬の車内特有の生暖かい空気が満ちていた。 暖房の人工的な空気に、人の熱気も加えられている。当然、外よりも随分と温度が高い。 藍は、首に巻きつけていたボーダーのマフラーをはずしてバッグにしまった。 電車特有のゆったりとしたリズムに合わせて体が揺れる。 ドアの小窓に映る半透明の自分を見つめながら、藍はそっと前髪に手を伸ばした。 肩につくかつかないかのあたりまで伸びた髪は、ピンで簡単に纏めている。 いつの間にか前に来ていたネックレスの止め具を首の後ろに戻してから、白のジャケットの襟元をキュッと引き締める。 スカートにするかパンツにするか迷ったあげく、結局選んだのは、グレーの膝丈パンツに黒のブーツという組み合わせだった。 夏の日焼けが残っている膝を出すのは抵抗があったが、パンツに素足でパンプスを合わせると、それこそ部活でいつも履いているくるぶしソックスの日焼けがくっきりと見えてしまうのだ。 こればっかりは仕方がない。 簡単に身なりを整え終えると、くるりと身を翻して車内に目を走らせた。 休日のせいか、彼女と同じ年頃に見える人の姿が多く目に付いた。 女の子同士、男の子同士もいるものの、やはり恋人同士が多いようだ。 当然かもしれない。今日は、全国の女の子が、勇気を振り絞ったそのご褒美を受ける日なのだから。 藍はふと、自分のバッグへ視線を落とした。 バッグの口から、シンプルな模様の紙袋がわずかに顔を覗かせている。 それをバッグから取り出しながら、彼女は先日のあるやりとりを思い出していた。 藍が心配することじゃない。 これから一緒に映画を見る約束をしている彼は、彼女の言葉にそうきっぱりと返した。 誕生日とホワイトデーがたまたま重なったというだけなのだから、と。 それでも、と尚も食いさがった藍に、彼は小さくため息をつくと、静かにこう言ったのだ。 そんなことが依子に知れたら、命がない、と。 ひょんなところで出た親友の名前に一瞬きょとんとした藍だったが、さすがの彼女もこれには笑い声をこぼしていた。 今の会話を本人が聞いたら怒るだろうが、それでも、その状況になったならば、彼女は強烈な一撃を喰らわせるだろう。藍が望まなくても、だ。 そっと、緩んでしまった口元に手をそえて笑顔を隠す藍。 結局、その話はそこで途切れてしまったのだが、きっと彼は自分を曲げないだろうから、それならばと彼女も彼女のしたいようにしたのだ。 紙袋の中身は、彼女なりのささやかな抵抗の証なのだ。 くるりと再び反転して、小窓に映った自分をぼんやりと見つめながら、藍は静かに目を伏せた。 あの頃は、こんな日が来るなんて思ってもみなかっただろう。 今、胸に灯る柔らかな温かさを確かめるように、彼女はそっと両手を握る。 何を決めようとも、身動きがとれなかった。 想うことも、伝えることも、諦めることもできずに、ただただ日々をやり過ごしていた。 そして、それを嘆くことしかしなかった、自分。 じりりと、胸の奥が軋む。 自分のことしか考えず、他の全てに目を伏せていた。 その結果が何をもたらしたか。 それを思うと、ひんやりとした水に心臓が浸されていくような感覚に陥る。 それでも、今の自分を否定することはない。 それが、あの押し流されるような感情の中で、ようやく見つけたことなのだから。 窓の向こう側で流れていく景色が、次第に速度を落としていく。 目的地を告げるくぐもったアナウンスに、車内の人々が動き始める。 藍は、ゆっくりと瞼を開けると、すぅっとひとつ息を吸い、手に持っていたバッグを肩にかけた。 ドアが開き、一斉にホームに押し出る人の波。 波の一滴となってホームの階段を下りながら、腕時計に目をやる。 待ち合わせの五分前。もしかしたら、もう来ているかもしれない。 階段を下りきり、少し足を速めると、ブーツのヒールの甲高い音が、後に続く。 綺麗に数列に並んでいる改札の、最後尾に並びながら、待ち合わせ場所の出口であることを確認する。 前の人の背後から、顔を覗かせて彼を探す。 改札の正面、少し離れたところにある大きな柱の脇に、彼はいた。むこうも気づいたようで、軽く右手を上げる。 藍は、柔らかな微笑みを浮かべながら、彼のもとへとむかった。 |