ベッドを占領していた読みかけのバレー雑誌や開いただけで終わった英語の教科書を適当に落としながら、早瀬巧はスウェット姿でベッドに寝転がった。 そのまま布団の中には入らずに、仰向けになりながら携帯の画面を見つめる。 この前の春休みに機種変更した携帯は、ようやく二ヶ月経つかどうかというところで、そのシルバーのボディに目立った傷は見当たらない。 ふと、先程からせわしなく動いていた親指が、低く唸るような振動に動きを止める。 小窓の上の着信ランプは、淡い赤を灯していた。 午前零時、星空の下 「もしもし」 『もしもし、片桐です。今大丈夫?』 電話を頻繁に掛け合う関係になっても変わらない、決まり文句。 堪え切れなかった巧の笑みは、小さな吐息となって受話器に漏れてしまう。 『え、なぁに?』 「ワリ、何でもない。平気だよ」 『ごめんね遅くに』 「ヘーキだって。で、どーしたんだよ? 何かあったか?」 部活部活の生活に加えて他校ということもあり、巧は最近会っていなかったことを思い出す。 『そうじゃなくて、』という明るい声を返され、内心安堵していると、続く言葉はそれこそ予想外のものだった。 『ねぇ、空見てみて』 「空?」 『そう、空。部屋からでいいから』 声の促すまま、受話器を片手に窓へと手を伸ばす。 大きな音を立てないよう慎重に雨戸を開ける。 四角く切り取られた空には、屋根や電線といったものの隙間を埋めるように、濃い藍色に彩られていた。 よく晴れているようで、星も雲に霞むことなくいくつか見てとれた。 『見れた?』 「おぅ。改まって夜に空なんか見ないけど、結構キレーなのな」 窓と壁との間にある僅かな出っ張りに肘を置き、空を見上げる。 感じたままを告げた巧の言葉に、受話器からは柔らかな笑い声が響く。 「なに?」 『ううん。……なんか、早瀬君だなぁって』 「なにそれ」 『いいの。気にしないで』 「ったく」 未だ止まない小さな声に口では呆れたような声を出しながら、巧もふっと口元を緩める。 『八時頃だとね、北斗七星とかカシオペア座が見れるの』 「あーあのW型のヤツ?」 『そう、それ。あと、獅子座も』 「マジで? もっと早く言えよ、探したのに」 『探してくれるの?』 「当然。なんてったって彼女の星座ですから」 『……ありがとう』 少しの戸惑いと気恥ずかしさとを含んだ声に、「まぁ、形わかんないけど」と照れ隠しの返事を口にする巧。 弱い風が首元をくすぐり、ふと、彼に中でひとつの疑問が浮かんだ。 「今、どこいる?」 『え? 家よもちろん。自分の部屋』 「そか。や、もしかして外出て見てんのかと思ったからさ。ベランダとか庭とか」 『大丈夫。部屋にいるから。ただ、窓の桟に座ってるけど』 「お前な」 『平気よ。いつものことだから。ちゃんと窓枠掴んでるもの』 「さすがに、勇ましいねぇ獅子座の女は」 『乙女座に嫌われてるのよ』 女性らしい外見や言葉遣いとは対照的な、彼女の実は男勝りな一面。 それを先程の言葉で受け流すのは、乙女座の始まる日より一日前に生まれた彼女の口癖なのだ。 「気をつけろよ」 『うん』 そのことを知っている巧は、小さくため息を吐くと、どこか呆れたような、そんな声で言った。 『ねぇ』 「ん〜?」 『……明日、練習よね?』 「あぁ。どうした?」 『ううん』 「なに?」 『いいの』 「言えって」 『何でもないの。……あ』 「片桐?」 何かに気づいたかのように言葉を切る彼女。 怪訝に思った巧が、すかさず声をかける。 けれど、紡がれた言葉は意外なものだった。 『誕生日、おめでとう』 その言葉に振り向いて部屋の時計を見れば、針は確かに十二を差していた。 五月二十日。 彼の、十七の誕生日だ。 『もしもし?』 「……忘れてた」 『だと思った。電話しても全然だったから』 受話器越しに聞こえるその声が、ひときわ柔らかくなる。 巧は、彼女の目的を知り、遊んでいたほうの手でクシャリと前髪を掴んだ。 「うわ、まじで? ちょ、」 『早瀬君?』 「……予想してなかったから、今更照れてきた」 どこか拗ねたような口ぶりに、再び受話器から笑みがこぼれる。 しかし、笑っていた口はすぐに、新たな言葉を彼へと送った。 『好きよ、巧』 そっと、静かに。けれど、しっかりと。 一瞬、電話だということを忘れ、まるで耳元で甘く囁かれたかのような錯覚に陥りそうになる。 凄まじい破壊力を持った言葉に、巧は「っあー」と呻き声をあげながら、額の手をそのまま目元へと乱暴に滑らせた。 「……明日、」 『なに?』 「明日、何時くらいに家帰る?」 『うちも練習あるけど……そうね、八時ぐらいには』 「九時すぎに、家寄る」 『え?』 「電話するから」 『あの、早瀬君?』 「戻ってる」 『え?』 「呼び方」 『……"巧"?』 「そう」 淡々としながらも嬉しさの滲む声に、返ってきたのは耳をくすぐる柔らかな笑い声。 「……何」 『だって、』 「……まどか」 ぴたりと、沈黙する彼女。 今度は巧が笑う番だった。 「まどか」 『……なに、巧』 「……サンキュ、な」 今年は、電話越しだったけれど。 来年は、ふたりで獅子座でも探そう。 そう思いながら、巧は空を見上げた。 |