序 あぁ、もし、そこの。 えぇそう、あんたのことですよ。先程から熱心にこの花を見つめてる。 あんた、ここらの人じゃないだろう? この辺りの人間は、滅多にここに来ないからね。 あぁ、そうかい、東の人かい。なら珍しいだろうね。 こんなに紫苑が咲いてる場所は、他には滅多にないだろう。 え、アタシかい? 何をしてるでもないさ。 日がな一日、こうしてここでぼんやりと、お天道さんを眺めてるのさ。 家にいたって爺が一人いるだけで、だぁれも来やぁせんからね。 ここらじゃもう、知り合いはみぃんな行っちまった。淋しいもんさ。 何処へだって? お若いの、アンタの頭は飾りかい? 爺ぃ婆ぁの行くとこなんざ、家かあの世に決まってんだろう。 あぁあぁ、そんなに縮こまらないでくんないよ。まるでアタシがいじめたみたいじゃないか。 ん? あんた、絵描きなのかい? そうかいそうかい。 どうにもこの場所は、そういう人間を引き付ける所のようだねぇ。 いやね、此処はちょっと曰くつきの場所なのさ。 もしかしたら、あんたのような人間を、呼び寄せてるのかもしれないね。 お若いの。 ここで絵を描くつもりなら、その片手間に、この婆ぁの相手をしてはくれんかね。 なぁに、大したことじゃぁない。あんたはただ、絵を描いていりゃあいいのさ。 説教なんかしやしないよ。 暇な婆ぁが勝手に話をするだけさ。 ただ、その話がね。アンタの絵の足しになるんじゃないかと思ってね。 え? あぁ安心しなよ。婆ぁの身の上話じゃないよ。 そんなもん、犬も食っちゃぁくれないだろう? 曰くつきって言っただろ? あぁ、そうだよ。その曰くをさ、聞かせてやろうと思ってね。 もちろん嫌ならそれで構わんよ。 しわがれた声を聞きながらじゃあ、描けるもんも描けなくなるといけないからね。 そうかい。付き合ってくれるかい。ありがたいねぇ。 それじゃぁひとつ、古い古い昔話でもしようかね。 これはそう、峠を埋めるこの花が、まだ一本も咲いてなかった頃の話さ。 |