壱 この場所は、元を正せば吉浜清一郎っていう、さる人形師の屋敷でね。 こんな辺鄙な所だが、ほれあんたも通って来ただろう? こことお江戸とを結ぶ、あの大きな街道さ。 あれのおかげというのかね。 腕の良さも相まって、食えるくらいにゃ仕事があったって話だよ。 しかしまぁ、その清一郎って人形師。ちょいと変わった男でね。 兄弟二人の男所帯。 歳は三十、男盛りだと言うに、妻も娶らず部屋に篭って、過ごす相手は人形ばかり。 声を掛けなきゃ風呂はもちろん、着のみ着のまま、飯も夜寝もとりゃしない。 更には極度の人見知りでね。 依頼主にも愛想のひとつまくことできず、返事をするにも頭を動かすだけときた。 いくら腕が立つたぁ言っても、周りから見りゃ変人以外の何でもない。 十も離れた弟の、洋二郎がいなくなったら、離れで一人おっ死んでても、三日三晩は気づかんだろうと専ら噂されてたそうさ。 ただ、だからというか、さすがというか。 清一郎の人形は、そりゃあ見事なもんだった。 雛人形も浄瑠璃も、その頬はほんのり温かいに違いない、と誰もが思ってしまうほど出来た代物だったのさ。 あたしも一度、とあるツテからその人形を見たがねぇ。 そりゃあんた、人形だとわかってたって人間かと思っちまうほど、やけに人肌に似た感触だったのを覚えているよ。 まるで死体の肌でも貼っつけたのかと思うほどさ。 えぇ、えぇ。 仰るとおり。 そんなこと、できる輩はいやしません。 それを承知の上で尚、清一郎の人形は人形離れして見えた。 「人形離れ」の人形なんざ、妙な言い草だろうがね。 そんな噂を聞きつけたのか。 明くる朝、流れの商人が二人の家を訪れた。 その商人っていうのが、また妙な男でね。 何だかんだ言ったって、人間誰しも多少なりとも印象ってもんがあるだろう? 顎が出てるだの声が高いだの、爺ぃか婆ぁかくらいはさ。 にもかかわらずこの商人、後々思い返してみても、どんな人物だったのか全くわからんらしいのさ。 太ってたのかと聞かれれば、そうかもしれんと頷くし、いやいや痩せてただろうと言われれば、やはりそうかもしれんと唸る始末。 そりゃ当時の旅人なんざ、道中笠に半合羽。誰も彼もおんなじような格好ばかりしていただろうよ。 だからと言って、人間自体がぼやけてるとは、何度聞いても話しても、まっこと気味が悪いさね。 おっと話がそれちまった。 普段なら、客人の応対は洋二郎の仕事だが、その日に限ってはちょいと違った。 いつもなら、離れに篭って顔も見せない清一郎が、その時だけは部屋を出て、品を見たいと言い出したのさ。 もちろんそれを断る洋二郎じゃない。 珍しいこともあるもんだ。 そう思いながら、二人揃ってお品定めに下りてった。 顔なしの商人に、顔を見せた清一郎。 よくよく思えば、この時にゃぁもう、きな臭い感じがしていたのかもしれないねぇ。 さて、何か良い物はあるだろうかと、広げられた商品に目を通す洋二郎。ふと、清一郎の視線に気がついた。 いや、それは「視線」なんて言葉じゃ、甘っちょろいかもしれないね。 清一郎は、指先ひとつ、睫毛ひとつ動かすことなく、食い入るように、商人が脇に降ろした籠をじぃっと見つめてた。 何をそんなに見つめてるのか、洋二郎にはさっぱりさ。 「兄者」といくら声をかけても、その様子は変わらなかった。 まるで、声そのものが耳に届いてないかのように。 商人も、気づいてないわけはなかろうに。 それでも何も言わずに一通り、品物の口上を述べていた。 まったくもって、妙な絵面だったろう。 だってそうだろ? 品物を前にしてるってのに、清一郎の奴と来ちゃ、彼方へ視線を投げてんだから。 洋二郎は気が気じゃなかったろうさ。 けどそこはそれ。商人は気を害する素振りも見せず、言ったそうだ。 「これを、ご所望で?」 洋二郎に言わせてみれば、この声さえも、どんなだったか覚えてないって言うんだけどね。 まぁ、それはこの際いいさ。 ともかくその商人は、始めっからわかってたのさ。清一郎が一体何を見てたかね。 籠の中から取り出されたのは、ちんまりとした桐の小箱だった。 蓋を開け、覗いて見えるは白い布の一包み。 商人は、包みを畳に滑らせて、清一郎のお膝前へと差し出した。 それまでは、身じろぎ一つなかったくせに、この時ばかりは清一郎も躊躇いもなく指を伸ばした。 そんな兄の行動に、洋二郎すら大して気にもしなかった。 兄を惹きつける代物に早くお目にかかりたい、と気ばかり急いていたんだろうよ。 包みを解かれた布の上。 あったのは、二対の紫暗の玉だった。 まぁるく伸びた淡い影。 親指の腹と、そう変わらない大きさで、てらてらと鈍みを帯びた黒の玉。 照らす光の加減のせいか、はたまた光が凝ってるのか。 微妙に色味を変える様、まるで冬の夕暮れさ。 やんわり落ちた影の上、重なるように滲むのは、青みを深めた真芯からじんわり熔けたかのような、透いた紫色だった。 それを目にしたその途端、洋二郎は、あぁ、と小さく呻きをあげた。 洋二郎とて、人形師の端くれだ。 見れば見るほど色味を変える、不思議なその硝子玉が、どれほど珍しいものか。すぐに察しがついたのだろう。 身じろぎ一つせず、籠を見つめていた兄の姿も、これを見れば納得だった。 普段から、あらゆる物の声を聞け、と言っているのが清一郎だ。 いち早く、この硝子玉に気づいていたとて、何の不思議もない。 そう考えたんだよ。 普段と異なるその様子にも、一人で納得しちまいやがった。 どれだけ二人でそうしていたか。 清一郎が、ついに口を開いてね。 もちろん、その硝子玉を買おうとしたよ。 しかしまぁ、さすがは奇人変人清一郎。言うに事欠いて、言い値で買うとほざきやがった。 それほどに、その硝子玉に惚れこんでいたんだろう。 清一郎がその玉に、何を感じてたのかはわからない。 ただ、弟の洋二郎ですらあぁだったんだ。 それ以上に魅入られてても不思議じゃないさ。 だがしかし、さすがに言い値は行き過ぎさ。 一度は我を失くした洋二郎も、慌てて間に入って兄を諌めた。 兄の目利きを信じちゃいるし、自分も確かにあれが欲しい。 あの玉を使って人形を作ることができたなら、この両腕が裂け砕け、二度と人形を作れなくなろうとも、悔いることなどないだろう。 自分すらそう感じる程なのだ。 兄がどれほど狂おしく、その玉を求めていることか。 清一郎は、まただんまりを決め込んでいたけれど、洋二郎にはわかってた。 目が、違う。 人形の爪の形が雑だと怒鳴る、鋭く射抜くような眼差しじゃない。 自分の身なりすら気にも留めない、膜の張った鈍い眼光でもない。 その目の奥でちらつく色は、さながら遊女に溺れ彼岸で添い遂げんとする、男の、暗く沈んだ情欲の炎に似ていた。 おかしいだろう? どれだけ珍しいとは言っても、所詮はただの石ころさ。 それに欲情するなんざ、できるもんかね。 アタシゃこの話を何度聞いても話しても、そこだけは信じられないんだよ。 え? 何さ。お前さん、奴の気持ちがわかるってのかい? だってたかが石ころじゃないか。 そうじゃない? ふうん、そこまで言うってことは、あんたも何かに魅入られたクチかい? 何だって? 絵を描くために女を殺した? あはははは、そうかいそうかい。 そりゃぁ随分豪胆だねぇ。 何たって、人を殺した人間が、こんなところで自分でそれを白状してんだ。 何、信じてない? いやいや、そんなことありゃしませんよ。 あんたがしたっていうんなら、そりゃ本当なんだろうさ。 まぁ、得てしてそういう奴らはね、それ相応の匂いってやつを持っているがね。 隠したくても隠し切れない、黒く濁った、死の影の匂いをさ。 でもそんな画家が一人や二人、存在してもおかしかないね。 ほらだって、どこぞの冴えない物書きが、そんな話を書いてただろう? あぁそうあれだ、地獄の業火の絵を描くために、娘を焼いた絵師の話さ。 お前さんも、読むか聞くかはしたことあるだろ? あぁ、それそれ。そんな名前だったかね。 それにねぇ。ちょいと前にも近くの町で、離れの奥で女が一人、骨になって吊るされていた妙な事件があってねぇ。 またどうも、殺したわけじゃぁないようだがね。 女が骨になるまでの絵が、離れの中で見つかったっていうじゃないか。 どうも完成品ではなくて、失敗したものだったんだろう。 画家の旦那が、死んだ女房の死体を使い、朽ちてく様を描いてたそうだよ。 そう、腐っていく姿までもね。 おや、どうしたそんな顔して。 あぁごめんよ、気分が悪くなっちまったか。 こりゃぁ随分肝の小さい人殺しがあったもんさね。 あはははは、そんなかっかと怒るでないよ。悪かった悪かった。 それにしてもさ。 絵描きも作家も人形師も。 何かを生み出す人の中には、何て言ったらいいんだろうね、そういう因果のようなもんにさ、縛られてるのがいるんだろうよ。 だけどね。 いいかい、これは婆ぁの忠告だがね。 止めときな。 あんたは絵描きだ。絵に惚れるのは仕方ない。 それでもね。そういう、何かの犠牲の上に成り立つ代物は、情に塗り固められてんのさ。 作り手の情ならまだいい。 問題なのは、昇華されずに留まっちまった、死んだ人間のほうなのさ。 情念とでも言うのかね。そういった情に囚われた物は、確かに人を惹きつける。 絵の中に、言葉の端に。死の匂いに似た情念が、べったり染みついてんだから。 だがほれ、あんたも聞いたことぐらいはあるだろう? 呪われた何とかってやつを。 情が凝った作品なんざ、果てはそういった類のものさ。 呪いは偶然なんかじゃないよ。 そう思うのも無理ないけどね。行き場を失くした情ってやつほど、恐いもんはないんだよ。 あぁ、結局説教じみた話になっちまった。 つまりはさ。 女を殺して絵を描こうが、描かれた絵に魅入られようが。それはどうにもできないけどね。 果てに待っているのはひとつ、身の破滅、それだけなのさ。 本物の絵描きなら、人様の命なんざ費やさなくても心を揺さぶるいい絵が描ける。 アタシゃそう思うんだがね。 お前さんも、そういう絵描きを目指してみなよ。 |