弐 さて。えらく脱線しちまったね。一体どこまで話したっけか? あぁ、そうだったそうだった。 玉を買うところだったね。 洋二郎の諌める言葉も、所詮は口先ばっかりさ。 清一郎も、それがわかっていたんだろうね。うんともすんとも言いやしない。 只でさえ、奇人だ何だと言われちゃいるが、そこは名のある人形師。 普段は身なりも気に留めないが、人形作りに関してだけは、てこでも己を曲げやしない。 まして今度は、肝心要の洋二郎さえ硝子玉が欲しいときてる。 清一郎とて兄なんだ。弟の心のうちが見えていないわけがない。 どんな言葉をかけたところで、上辺をなぞるだけだったのさ。 しかしどうだい、その商人。 あろうことか、たった一言突っぱねやがった。 「お売りすることはできません」 これだけさ。 これには洋二郎も驚いた。 言い値は無理だと思いはしたが、洋二郎とて、暮らしを切り詰め払える額なら買いうけようと思ってたのさ。 それをまぁ、ふっかけるならいざ知らず、額も言わずに突っぱねるとはさすがに思いもしなかった。 それでもね。 清一郎の驚きは洋二郎の比じゃぁなかった。 清一郎は本当に、心の底から言い値で買おうとしてたのさ。 口先だけじゃぁもちろんない。 稼ぎで賄えないってんなら、家も着物も何もかも、値のつくもんならあらゆるものを売っ払おうと思ってた。 それがまさかのお断りさ。納得できるわけがない。 「何故売らぬ。口先だけのでまかせを申していると思ったか!」 烈火のごとく、とは誰が言ったか、全くできた表現さ。 目尻吊り上げ尖った声で唾吐きかけて男に詰め寄るその様は、修羅や羅刹と見まごうばかりの、烈火のごとき激しさだった。 確かに、商売物には一際厳しい清太郎だが、それだって、使えん、くだらん、その両の目は節穴か、と言った具合に、身も蓋もなく切り捨てられるが常だった。 そんな男が、これほどまでに怒りを露にしたんだからね。 そりゃあそりゃあ洋二郎こそ肝を冷やしたことだろう。 何よりも、その鬼気迫る表情は、それこそさっき話した画家の話じゃないけどね、その商人を殺してだって奪いかねない勢いだったと言うんだから、手に負えないさ。 それでもね。 当の商人、顔色ひとつ、声色ひとつ変えることなく、けろりとしたもんだった。 それもその筈。お前さん、その商人、何て言ったと思うかね? 「金子は不要。これは貴方にお譲りします」 そう言いやがったのさ! 全く、紛らわしいことこの上ない。だったら最初から言えってぇのさ。 まぁそりゃね、早とちりして大声出したのはこっちのほうさ。 それでもね、最初に売れないって言われちゃさ、手に入らないと思うだろ? あぁいけない。 ここで愚痴をこぼしたところで脱線するのがおちってもんだ。 話を先に進めるよ。 その商人の言い分はこうさ。 もとを辿ればその硝子玉、異国から来た品物で、やけに不思議な色味を見せる。 これは一先ず売らずに手前で持ち帰り、ちょいと様子を見てみよう。 そう考えていたんだと。 だがしかし、この町に来て、やたらと背筋がざわつきやがる。 そこで気になり話を聞けば、その筋では名の知れた、さる人形師がいるという。 これも縁かとふらりと寄れば、どうしたものか、そこの主人がじぃっと籠を見てくるじゃないか。 言いも出しもしなかった、紫暗の玉が見えてるようにね。 これはもう、導かれたに違いない。 そう感じたと言うんだよ。 商売人なら誰でもわかる。 言葉にゃなかなかできないが、こう稀に、互いの声を聞き合うように、持つべき人へと物を運ぶことがある、とね。 今度もそれに違いない。 そちらの旦那は、この玉の声を聞き届けたことだろう。 なればこそ、金など頂くわけにはいかぬ。どうぞこのまま、お納めを。 その商人は言うが早いか広げた包みをまとめ上げ、清一郎に手渡したのさ。 清一郎は大喜びだ。 ちょいと前の鬼をも射殺す形相はどこへやら。 包みの玉を一瞥すると、礼もそこそこ、さっさと離れに引っ込みやがった。 まったく、まさに奇人だよ。 洋二郎の普段の苦労が、まざまざと目に見えるようさ。 もちろん洋二郎はそうはいかない。 何度も何度も、そりゃ丁寧に頭を下げると、さしあたりまだ事足りている品物までも、随分買い込んだんだとさ。 まぁこれもね、洋二郎の性っていうのもあるけどさ。 金子払って買ったと思えば、それでも安い買い物だ。 恐らくは、そう考えてのことなんだろう。 さて。 一通りの売り買いが済み、そろそろお暇しましょうか、という時だ。 戸口の前で、その商人は一言残して去ってった。 「物の声が聞こえるお人は、物の力に呑まれやすい」 「どうかどうかそれだけは、忘れないでくんなまし」 洋二郎は。 この言葉、死ぬまで忘れはしなかった。 忘れられなくなったってぇのが、ほんとのところだったろうがね。 どういうことかって? まぁ、そんなに先を急ぐこともないだろう? ほら、話に夢中なのは嬉しいけどね。手元がすっかりお留守じゃないか。 で、あんたのほうはどこまで描けたんだい? おやおや、何だい、そんなに慌てて隠さなくてもいいだろう? 何? 完成するまで見せたくない? まったく、ケチだねぇ。ちょいと見るくらいいいじゃないか。 え? 紫苑の他の名前? また随分といきなりだねぇ。 まぁいい。 そこまで見せたくないってんなら、はぐらかされてやろうじゃないか。 他の名前、他の名前……。はて、知らないねぇ。 この辺りでは、紫草とも言うけれど、そういうんじゃないんだろう? お、何だい何だい、やけに嬉しそうな顔しやがって。 ははは、わかったわかった。 それじゃぁこの学のない婆さんに、他の名前ってのを教えてくんなよ。 ふぅん、「オニノシコクサ」ねぇ。どういう字だい。 ……ふんふん、成程。「鬼の醜草」ね。 しっかし、細い花びらひっさげた何てことない花だってのに、随分物騒な名前がついてるもんだねぇ。 うん? 違う? 何が違うのさ。 ……ふぅん。つまり何かい、「鬼の醜草」ってぇ名前は、親を想う子供の心に、鬼が感動したってことから来てんのかい。 それが由来だってんなら、そうだね確かに怖かない。 いやむしろ、字面の割にゃぁいい名じゃないか。 に、してもねぇ。 弟が、亡くした親を忘れぬよう、思い草を供え続けて、鬼が感じ入ったのか。 かの人も、ここに広がる紫苑を見たら、少しは慰められるかねぇ。 うん? あぁ、いや、さっきの話の続きだよ。 結末、とでも言えばいいのか。 だからそんなに急かすでないよ。どうせ時間はあるんだろう? この峠の、紫苑もね。さる人を思って咲いてる花なのさ。 |