参 二対の紫暗の硝子玉。 それを手に入れても尚、洋二郎の悩みの種は尽きなかった。 むしろ増えたといっていい。 あの一件からというもの、清一郎はいつにも増して離れに閉じこもっちまった。それに加えて、常ならば、一声かけて戸前に膳を置いとけば、見事にペロリと空になっていたものを。 今回ばかりは、膳を置こうが怒鳴ろうが、懇願しようがどこ吹く風。返事ひとつ、身じろぎひとつ返しやしない。 かと思いきや、致し方なく戸を開けようと手をかけるなり、どうして中からわかるのか、冷たく一言「開けるな」と撥ね付けられちまう。 だが、風呂や着物は目を瞑れても、食事はそうはいきやせん。 食を断つこと八日目にして、いよいよ我慢も限界になった洋二郎、怒られようが追われようが、兄の命にゃ変えられないと、覚悟を決めて戸に手をかけた。 するとどうだい。 今度ばかりは何も言ってきやしない。 洋二郎は青ざめた。 だってそうだろ? それまでは、入ろうという素振りだけでも中から怒られたってのに、今度ばかりは何もなし。 観念したというよりも、良くて失神、最悪おっ死んじまったと、考えるのが道理だろう。 さすがに慌てた洋二郎は、礼儀作法も省みず、清一郎を呼びながら、離れの部屋へと踏み込んだ。 篭って澱んだ空気のむこう、ちらつく埃の先に見えるは色の薄れた青地の着流し。 座り込み、背筋を丸め微動だにせず、手に道具すら持ってない。 恐る恐る声をかけるが、相も変わらず返事はこない。 こりゃ早々に医者がいる。 兎にも角にも、兄の様子を近くで見ようと足を進めた洋二郎。 だがそこで、ふとあるものに気がついた。 清一郎の、肩の先。 向き合うように、それはいた。 陶器のような白い肌。 夜空の闇を溶かしたような、しっとり重い黒の髪。 ほんのり色づく頬は薄桃。 下口唇に紅をさし、白地の小袖を着付けた姿、雪景色こそ見事に映える、冬の椿のようだった。 だがそれよりも何よりも。洋二郎が囚われたのは。 淡く凝った光が揺れる、二対の紫暗。その瞳。 できたのだ。 あぁ、遂に、できたのだ! 洋二郎は、兄の様子もお医者のことも、すっかり忘れてその人形に見入っちまった。 あれはそう、かつて天下を賑わせた、大震災の後だった。 供養のための人形を、二十四体、寝る間も惜しんでこしらえた。 影も形も無うなっちまった連中を、どうにか家族に帰してやろうと、人から人に話を聞いて、半年がかりで作ってね。 その時も、町の奴らはひとがたを見て、まるで眠っているようだ、と涙流して喜んでたが。 この人形は、そんな次元の話じゃなかった。 人に言わせりゃ、なんてこと無い。たった七日でこしらえた、見目美しい人形だろう。 それでもね。洋二郎にはわかってた。 これから先。これ以上の人形は、作ることも見ることも、できやしないに違いない。 ──持つべき人と出会ったまで── あの商人の言ってた意味が、その時やっと、洋二郎にも身に染みたのさ。 だがしかし、いつまでも呆けちゃいられない。 目だけじゃ足らず、五感全てを人形に掻っ攫われた洋二郎、熱が抜けたか弾けるように清一郎へと駆け寄った。 声をかけても意味はなく。肩を揺すればなんとまぁ、記憶と違い軽いこと! そりゃぁ元々、奇人だ何だと噂のとおり、作業に入っちまったが最後、納得いくまで手間暇かけて人形こさえる男だけどね。 この数日で、一体どれだけ痩せ細ったか。 食事だけの話じゃない。 灯りを消して、休んだように見せかけながら、その陰で、有明行灯だけを頼りに、夜も夜とて作業してたに違いない。 辺りを見ればさもあらん、枕元にあるべきそれは、清一郎の脇にある、机の上に置かれてた。 清一郎の無茶な仕事にゃもう慣れっこの洋二郎も、さすがにこれには肝を冷やした。 今度ばかりは勝手が違う。 まさかと思うが、もしやほんとに死んだのか。 と、恐々顔を覗いて見れば。 なんてこたぁない、精魂尽き果て死んだように眠りこくっていやがった! まったく、人騒がせな男だよ。 まぁでもね、頬も痩せこけ、手やら肩やら肉が削げ、随分薄っぺらくなっちまってた。 あと一日、踏み込むのが遅ければ、あわやの事態だったろうと医者も言ってたくらいだよ。 幸い、自宅で静養と相成りゃしたが、昏々と眠り続ける清一郎とは引き換えに、洋二郎は医者にきつーくお灸を据えられてね。 重病人をほっぽって、人形なんかに見入っちまうとは何事か。寝食とらず、作るほうも作るほうだが、見入るほうも見入るほう。この世に二人の兄弟なんだ、アンタが止めずに誰がする、と、そりゃぁこっぴどく締められた。 洋二郎も、思うところがあったんだろう。 さすがに神妙な顔して聞いてたそうだ。 元を辿れば、兄とは違い常識人で名前が通った洋二郎だ。 我に返ってすっかり反省してんだろうと、この時ぁ誰もが思ってたのさ。 さてそんなこととはいざ知らず。 誰が言ったか知らないが、町じゃぁすっかり二人の話でもちきりだった。 清一郎が無茶をすんのは町のみんなも飽いているがね。 それがほれ、仕事以外の話となっちゃぁ俄然興味が湧くってもんよ。 清一郎はこれまでも、確かに無茶はしてきたけどね。 それは仕事の上での話。 修行と称して仕事以外で人形こさえることもあったが、それはそれ。 やれ西洋人形の解体だ、やれ指先はこうしたほうがより柔らかさを増すんじゃないか、と一事が万事こんな調子さ。 技を極めることばかり故、部分部分の作業がほとんど。 此度のように、丸々一体こさえるどころか、己の欲にうかされて、寸暇を惜しんで作ることなど、前代未聞のことだったのさ。 だからこそ。誰もが皆気になった。 清一郎が、心を削り身を削り、己が命を注ぎ込むように作りあげたその人形は。一体どんなものなのかとね。 けど案外、誰よりそれを気にしてたのは、人形こさえた張本人、清一郎かもしれないね。 三日三晩眠り続けた清一郎。 開口一番口にしたのは、あまりにらしいことだった。 さて、せっかくここにも芸の道行く絵描きさんがいらっしゃるんだ。 お前さんにもちょいと聞いてみようじゃないか。 まぁ考えてみておくれ。 これ以上ない傑作を、あんたはついに描きあげた。 でもそれまでの不養生がたたっちまって、あんたは倒れ、目覚めてみればすっかり日にちが経っていた。 さぁそこで、あんたは一体何を言う? はははは、そうかいやっぱりね。 まったく何かを作るってぇのはほんとに因果なもんだねぇ。 それこそ芸の道いく宿命とでも言やぁいいのか。 あぁそうさ。清一郎も起きて早々、おんなじことを言ったのさ。 真っ白い顔に涙にじませ、気分はどうだと尋ねてくる洋二郎にも構わずに。 「あの人形はどこにある?」 とね。 洋二郎も、きっとわかっていたんだろうさ。 声を聞くなりふっと笑って、寝所の隅を指差した。 そうそこに、清一郎最初で最後の、熱病にも似た衝動によってこしらえられた、紫暗の瞳をした人形が、あの日のように壁にもたれて座ってたのさ。 臥せった身体をゆっくり起こし、清一郎は黙ってそれを見つめてた。 洋二郎が、肩に羽織をかけたことすら、きっと気づいてなかっただろう。 その出来具合を確かめたのか。ただ感慨に耽ってたのか。呆然と、見つめることしかできずにいたか。 それはアタシにゃわからない。 ただ、清一郎はしばらくそうして、その人形をじぃっと見つめていたんだよ。 どれだけ時が経ったのか。 取り残された洋二郎は、さも当然と言った風情で、ただただ静に兄貴の傍に控えてた。 彼とて腕ある人形師。 兄の心を察していたし、いつ何時も人形師たる、兄の姿に惚れていた。 相も変わらず、寝ても覚めても人形ばかりの清一郎に、逆に安心したんだろうさ。 だけどねぇ。いやいや、だからと言うべきなのか。 洋二郎は、無音の時間を遮って、清一郎に問いかけた。 かの人形の、名前をね。 不思議かい? まぁ人形師全員が、自分のこさえた人形に名づけをするかはわからないがね。 清一郎は人一倍、名づけに敏感だったのさ。 言霊信仰とでも言うのか。 名前をつけてやることで、空の身体に命を吹き込む。 そう考えていたらしい。 人形作りの最後の仕上げが、名づけなんだと言い切った。 だからこそ、洋二郎は名前を訊こうとしてたのさ。 弟子であり、弟である洋二郎にも、その考えは空気のように身体に馴染んでいたんだろう。 たかが名前と思うかい? いや、絵を描くお前さんなら、きっとそうは思わぬだろう。 正直どれだけ待ってたことか。 誰よりも、作った清一郎よりも、あの人形に名がないことを憂えていたのは洋二郎だよ。 名前がなければ、あの人形はこの世にないもおんなじだ。 その出来栄えを目で手で肌で知りながら、作り手でないそれ故に、何もできないもどかしさ。 あれほどの器を既に持ちながら、名が無い故に完全でないという状況が、洋二郎には耐えがたかった。 そこはそれ、洋二郎とて人形師だということだろう。 あの二つとない人形を。 清一郎の傑作を。 何より早く、完成させてやりたかったに違いない。 その気持ち、清一郎が察しできないはずがない。 凪のような対話の時間をあっさりと手離して、清一郎はゆったりと、柔い微笑を浮かべてみせた。 ぶっ魂消たのが洋二郎さ。 他人にゃ全く顔を見せない清一郎も、そりゃアンタ、弟である洋二郎には表情崩して見せるがね。 それでも見せるというよりは、洋二郎が読み取るほうがほとんどさ。 そうつまり、全く表に出しゃしない。 そんなお人が知ってか知らずか、日差し差し込む窓辺のように、顔を緩めて見せたんだ。 洋二郎にしてみれば、度肝抜かれて当然だろう。 あの玉を売れぬと言われた時といい。 此度の名前の時といい。 紫暗の玉がどれほど深く、清一郎の心の底に根を張り巡らせていたことか。 清一郎はもう既に、仕上げの作業を終えていた。 名前はもうあったのさ。 倒れる前に決めていたのか、それとも先の時間に決めたか。 或いは……いや、何でもないよ。 まぁとにかく、その人形はようやく命を込められたのさ。 紫苑。 それが、その人形の名前だよ。 あぁそうさ。 お前さんが描こうとしてる、その紫の花の名前さ。 どうしてかなんてわかるだろ? あの玉なくして、この人形はありえない。 清一郎が全て投げうち狂ったようにこしらえたのも、全てはその玉ありきのことさ。 こうして形を成して尚、光を湛えた紫暗の両瞳が、何より人を惹きつけるのを、奴はわかっていたんだろうよ。 とは言えど、当時の吉浜屋敷には、一本だって紫苑の花は咲いてなかった。 藤に桔梗、菖蒲、竜胆、杜若。 紫色した花なんざ、他にもこれだけあるというのに。 それでも紫苑を選ぶあたりが因果というもんなのかねぇ。 さて。 名づけも終わり、ようやく完成した紫苑。 だがその後が問題だった。 普段だったら依頼主に引き渡し、ありがたくお代を頂戴するところだが、今回ばかりは仕事じゃないんだ、そうもいかない。 熱に任せて作ったものの、使い道などありはせん。 ましてや人とほぼ同じ。 飾るにしても置くにしろ、場所とることは請け合いさ。 とりあえず、離れに置いて見本のひとつにしているものの、あまりに人間臭いため、どうにもこうにもこちらのほうが居心地悪い。 出来た当初は惚れ惚れしてた洋二郎さえ、正直対処に困ってた。 意を決し、清一郎に身の振り方を問うてもみたが、答えは素気無くたった一言。 自分の隣に置けばよい。 それだけさ。 清一郎は、仕事となればそれしか見えないタチだしね。 それに何より、紫苑をこさえた張本人だ。 尋常でない気のいれようで作り上げたその人形を、無碍にする等あるはずがない。 洋二郎もわかっちゃいたが、無碍には出来ない、だからこそ、余計に扱いづらくもあった。 だけどねぇ。 清一郎がそう言ったのは、作り手故の愛情だけじゃぁなかったんだよ。 |