二対の紫暗の硝子玉。
それを手に入れても尚、洋二郎の悩みの種は尽きなかった。
むしろ増えたといっていい。
あの一件からというもの、清一郎はいつにも増して離れに閉じこもっちまった。それに加えて、常ならば、一声かけて戸前に膳を置いとけば、見事にペロリと空になっていたものを。
今回ばかりは、膳を置こうが怒鳴ろうが、懇願しようがどこ吹く風。返事ひとつ、身じろぎひとつ返しやしない。
かと思いきや、致し方なく戸を開けようと手をかけるなり、どうして中からわかるのか、冷たく一言「開けるな」と撥ね付けられちまう。
だが、風呂や着物は目を瞑れても、食事はそうはいきやせん。
食を断つこと八日目にして、いよいよ我慢も限界になった洋二郎、怒られようが追われようが、兄の命にゃ変えられないと、覚悟を決めて戸に手をかけた。
するとどうだい。
今度ばかりは何も言ってきやしない。
洋二郎は青ざめた。
だってそうだろ? それまでは、入ろうという素振りだけでも中から怒られたってのに、今度ばかりは何もなし。
観念したというよりも、良くて失神、最悪おっ死んじまったと、考えるのが道理だろう。
さすがに慌てた洋二郎は、礼儀作法も省みず、清一郎を呼びながら、離れの部屋へと踏み込んだ。
篭って澱んだ空気のむこう、ちらつく埃の先に見えるは色の薄れた青地の着流し。
座り込み、背筋を丸め微動だにせず、手に道具すら持ってない。
恐る恐る声をかけるが、相も変わらず返事はこない。
こりゃ早々に医者がいる。
兎にも角にも、兄の様子を近くで見ようと足を進めた洋二郎。
だがそこで、ふとあるものに気がついた。
清一郎の、肩の先。
向き合うように、それはいた。
陶器のような白い肌。
夜空の闇を溶かしたような、しっとり重い黒の髪。
ほんのり色づく頬は薄桃。
下口唇に紅をさし、白地の小袖を着付けた姿、雪景色こそ見事に映える、冬の椿のようだった。
だがそれよりも何よりも。洋二郎が囚われたのは。
淡く凝った光が揺れる、二対の紫暗。その瞳。



できたのだ。
あぁ、遂に、できたのだ!



洋二郎は、兄の様子もお医者のことも、すっかり忘れてその人形に見入っちまった。
あれはそう、かつて天下を賑わせた、大震災の後だった。
供養のための人形を、二十四体、寝る間も惜しんでこしらえた。
影も形も無うなっちまった連中を、どうにか家族に帰してやろうと、人から人に話を聞いて、半年がかりで作ってね。
その時も、町の奴らはひとがたを見て、まるで眠っているようだ、と涙流して喜んでたが。
この人形は、そんな次元の話じゃなかった。
人に言わせりゃ、なんてこと無い。たった七日でこしらえた、見目美しい人形だろう。
それでもね。洋二郎にはわかってた。
これから先。これ以上の人形は、作ることも見ることも、できやしないに違いない。
──持つべき人と出会ったまで──
あの商人の言ってた意味が、その時やっと、洋二郎にも身に染みたのさ。
だがしかし、いつまでも呆けちゃいられない。
目だけじゃ足らず、五感全てを人形に掻っ攫われた洋二郎、熱が抜けたか弾けるように清一郎へと駆け寄った。
声をかけても意味はなく。肩を揺すればなんとまぁ、記憶と違い軽いこと!
そりゃぁ元々、奇人だ何だと噂のとおり、作業に入っちまったが最後、納得いくまで手間暇かけて人形こさえる男だけどね。
この数日で、一体どれだけ痩せ細ったか。
食事だけの話じゃない。
灯りを消して、休んだように見せかけながら、その陰で、有明行灯だけを頼りに、夜も夜とて作業してたに違いない。
辺りを見ればさもあらん、枕元にあるべきそれは、清一郎の脇にある、机の上に置かれてた。
清一郎の無茶な仕事にゃもう慣れっこの洋二郎も、さすがにこれには肝を冷やした。
今度ばかりは勝手が違う。
まさかと思うが、もしやほんとに死んだのか。
と、恐々顔を覗いて見れば。
なんてこたぁない、精魂尽き果て死んだように眠りこくっていやがった!
まったく、人騒がせな男だよ。
まぁでもね、頬も痩せこけ、手やら肩やら肉が削げ、随分薄っぺらくなっちまってた。
あと一日、踏み込むのが遅ければ、あわやの事態だったろうと医者も言ってたくらいだよ。
幸い、自宅で静養と相成りゃしたが、昏々と眠り続ける清一郎とは引き換えに、洋二郎は医者にきつーくお灸を据えられてね。
重病人をほっぽって、人形なんかに見入っちまうとは何事か。寝食とらず、作るほうも作るほうだが、見入るほうも見入るほう。この世に二人の兄弟なんだ、アンタが止めずに誰がする、と、そりゃぁこっぴどく締められた。
洋二郎も、思うところがあったんだろう。
さすがに神妙な顔して聞いてたそうだ。
元を辿れば、兄とは違い常識人で名前が通った洋二郎だ。
我に返ってすっかり反省してんだろうと、この時ぁ誰もが思ってたのさ。
さてそんなこととはいざ知らず。
誰が言ったか知らないが、町じゃぁすっかり二人の話でもちきりだった。
清一郎が無茶をすんのは町のみんなも飽いているがね。
それがほれ、仕事以外の話となっちゃぁ俄然興味が湧くってもんよ。
清一郎はこれまでも、確かに無茶はしてきたけどね。
それは仕事の上での話。
修行と称して仕事以外で人形こさえることもあったが、それはそれ。
やれ西洋人形の解体だ、やれ指先はこうしたほうがより柔らかさを増すんじゃないか、と一事が万事こんな調子さ。
技を極めることばかり故、部分部分の作業がほとんど。
此度のように、丸々一体こさえるどころか、己の欲にうかされて、寸暇を惜しんで作ることなど、前代未聞のことだったのさ。
だからこそ。誰もが皆気になった。
清一郎が、心を削り身を削り、己が命を注ぎ込むように作りあげたその人形は。一体どんなものなのかとね。
けど案外、誰よりそれを気にしてたのは、人形こさえた張本人、清一郎かもしれないね。
三日三晩眠り続けた清一郎。
開口一番口にしたのは、あまりにらしいことだった。



さて、せっかくここにも芸の道行く絵描きさんがいらっしゃるんだ。
お前さんにもちょいと聞いてみようじゃないか。
まぁ考えてみておくれ。
これ以上ない傑作を、あんたはついに描きあげた。
でもそれまでの不養生がたたっちまって、あんたは倒れ、目覚めてみればすっかり日にちが経っていた。
さぁそこで、あんたは一体何を言う?
はははは、そうかいやっぱりね。
まったく何かを作るってぇのはほんとに因果なもんだねぇ。
それこそ芸の道いく宿命とでも言やぁいいのか。
あぁそうさ。清一郎も起きて早々、おんなじことを言ったのさ。
真っ白い顔に涙にじませ、気分はどうだと尋ねてくる洋二郎にも構わずに。



「あの人形はどこにある?」



とね。
洋二郎も、きっとわかっていたんだろうさ。
声を聞くなりふっと笑って、寝所の隅を指差した。  
そうそこに、清一郎最初で最後の、熱病にも似た衝動によってこしらえられた、紫暗の瞳をした人形が、あの日のように壁にもたれて座ってたのさ。
臥せった身体をゆっくり起こし、清一郎は黙ってそれを見つめてた。
洋二郎が、肩に羽織をかけたことすら、きっと気づいてなかっただろう。
その出来具合を確かめたのか。ただ感慨に耽ってたのか。呆然と、見つめることしかできずにいたか。
それはアタシにゃわからない。
ただ、清一郎はしばらくそうして、その人形をじぃっと見つめていたんだよ。
どれだけ時が経ったのか。
取り残された洋二郎は、さも当然と言った風情で、ただただ静に兄貴の傍に控えてた。
彼とて腕ある人形師。
兄の心を察していたし、いつ何時も人形師たる、兄の姿に惚れていた。
相も変わらず、寝ても覚めても人形ばかりの清一郎に、逆に安心したんだろうさ。
だけどねぇ。いやいや、だからと言うべきなのか。
洋二郎は、無音の時間を遮って、清一郎に問いかけた。
かの人形の、名前をね。
不思議かい? 
まぁ人形師全員が、自分のこさえた人形に名づけをするかはわからないがね。
清一郎は人一倍、名づけに敏感だったのさ。
言霊信仰とでも言うのか。
名前をつけてやることで、空の身体に命を吹き込む。
そう考えていたらしい。
人形作りの最後の仕上げが、名づけなんだと言い切った。
だからこそ、洋二郎は名前を訊こうとしてたのさ。
弟子であり、弟である洋二郎にも、その考えは空気のように身体に馴染んでいたんだろう。
たかが名前と思うかい?
いや、絵を描くお前さんなら、きっとそうは思わぬだろう。
正直どれだけ待ってたことか。
誰よりも、作った清一郎よりも、あの人形に名がないことを憂えていたのは洋二郎だよ。
名前がなければ、あの人形はこの世にないもおんなじだ。
その出来栄えを目で手で肌で知りながら、作り手でないそれ故に、何もできないもどかしさ。
あれほどの器を既に持ちながら、名が無い故に完全でないという状況が、洋二郎には耐えがたかった。
そこはそれ、洋二郎とて人形師だということだろう。
あの二つとない人形を。
清一郎の傑作を。
何より早く、完成させてやりたかったに違いない。
その気持ち、清一郎が察しできないはずがない。
凪のような対話の時間をあっさりと手離して、清一郎はゆったりと、柔い微笑を浮かべてみせた。
ぶっ魂消たのが洋二郎さ。
他人にゃ全く顔を見せない清一郎も、そりゃアンタ、弟である洋二郎には表情崩して見せるがね。
それでも見せるというよりは、洋二郎が読み取るほうがほとんどさ。
そうつまり、全く表に出しゃしない。
そんなお人が知ってか知らずか、日差し差し込む窓辺のように、顔を緩めて見せたんだ。
洋二郎にしてみれば、度肝抜かれて当然だろう。
あの玉を売れぬと言われた時といい。
此度の名前の時といい。
紫暗の玉がどれほど深く、清一郎の心の底に根を張り巡らせていたことか。
清一郎はもう既に、仕上げの作業を終えていた。
名前はもうあったのさ。
倒れる前に決めていたのか、それとも先の時間に決めたか。
或いは……いや、何でもないよ。
まぁとにかく、その人形はようやく命を込められたのさ。



紫苑。



それが、その人形の名前だよ。
あぁそうさ。
お前さんが描こうとしてる、その紫の花の名前さ。
どうしてかなんてわかるだろ? 
あの玉なくして、この人形はありえない。
清一郎が全て投げうち狂ったようにこしらえたのも、全てはその玉ありきのことさ。
こうして形を成して尚、光を湛えた紫暗の両瞳が、何より人を惹きつけるのを、奴はわかっていたんだろうよ。
とは言えど、当時の吉浜屋敷には、一本だって紫苑の花は咲いてなかった。
藤に桔梗、菖蒲、竜胆、杜若。
紫色した花なんざ、他にもこれだけあるというのに。
それでも紫苑を選ぶあたりが因果というもんなのかねぇ。
さて。
名づけも終わり、ようやく完成した紫苑。
だがその後が問題だった。
普段だったら依頼主に引き渡し、ありがたくお代を頂戴するところだが、今回ばかりは仕事じゃないんだ、そうもいかない。
熱に任せて作ったものの、使い道などありはせん。
ましてや人とほぼ同じ。
飾るにしても置くにしろ、場所とることは請け合いさ。
とりあえず、離れに置いて見本のひとつにしているものの、あまりに人間臭いため、どうにもこうにもこちらのほうが居心地悪い。
出来た当初は惚れ惚れしてた洋二郎さえ、正直対処に困ってた。
意を決し、清一郎に身の振り方を問うてもみたが、答えは素気無くたった一言。
自分の隣に置けばよい。
それだけさ。
清一郎は、仕事となればそれしか見えないタチだしね。
それに何より、紫苑をこさえた張本人だ。
尋常でない気のいれようで作り上げたその人形を、無碍にする等あるはずがない。
洋二郎もわかっちゃいたが、無碍には出来ない、だからこそ、余計に扱いづらくもあった。



だけどねぇ。
清一郎がそう言ったのは、作り手故の愛情だけじゃぁなかったんだよ。







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10.04.17


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