あの日から、清一郎は寝所の蒲団で臥せりっぱなしになっていた。
何も言わず、何もせず。ただぼんやりと、虚ろな顔でどこかを見つめるその様は、皮肉なことに、さも人形のようだった。
「いい風だ。もう秋も近いんですね」
「秋刀魚を分けて頂いたので、夕餉にお出ししましょうか」
「町じゃ皆、奉納祭の準備で大忙しですよ」
洋二郎は、甲斐甲斐しく清一郎の世話をしていた。必ず一声かけながら、ね。
もちろん着替えや飯だけじゃない。
陽が温かけりゃ戸を開き、部屋の空気を入れ替えてたし、臥せったままでは身体に悪いと、座椅子をこしらえ清一郎を起き上がらせた。
身体も拭いてやってたし、下の世話も面倒みてた。
日頃から、清一郎の身の回りの世話をしてたと言ってもね。なかなかできることじゃあない。
そりゃぁ医者にも診てもらったさ。
紫苑をこさえたその後に、洋二郎にお灸を据えた、例のいつもの先生さ。親しくしていた先生さえも、その変わりように驚くばかり。
心は愚か身体さえ、元に戻せはしなかった。清一郎の変貌ぶりは、病気や怪我の類じゃない。強いていうなら憑き物さ。
そりゃぁお医者にゃ荷が重かったことだろう。
時間が解決してくれる。それを待つ他あるまいと、掛かり付けの先生が、眉を曇らし言うのをね。洋二郎はどんな気持ちで耳にしていたことだろう。
更に厄介だったのは、清一郎のその状態が、口さがない一部の奴らのそのせいで、町の噂になっちまってたことだった。
何と言っても清一郎は、名前の知れた人形師。
その才能に妬みを持った奴らがいても、何ら不思議はないだろう。そんなチンケな奴らにしたら、この状況は涎が出るほど嬉しかろうて。
やれ薬だの女だの、あることないこと尾鰭をつけて、散々町で騒いでたのさ。
家事に仕事に、何かにつけて町に繰り出す洋二郎だ。
噂のことも、疾うに耳に入っていたよ。
もちろんさ、単刀直入、洋二郎に事の次第を聞き出す輩はいなかったがね。
それでもさ。ちらりちらりと窺うように見やる好奇の視線がね、言葉よりも何よりも、その状況を雄弁に、教えてくれていたんだろうさ。
だからと言って、洋二郎は特別何もしなかった。
人の口には戸が立てられぬ。悪戯に否定をすれば、更に噂を煽るだけ。それをわかっていたんだろう。
幸いにして、清一郎は町には出ない。
清一郎の状態だけは外に知られてしまったものの、その原因たる出来事までは明るみになる筈もない。
ちょっとの間、洋二郎が好奇の視線に晒されながら、それでもケロッとしていれば、噂もそのうち消えるだろうと、そう考えていたんだよ。



だがしかし。
洋二郎にゃぁもうひとつ、悩みの種ができていた。



清一郎の傍らに控えてたいのは山々だろう。
それでもね、世話するにしろ食うにしろ、金が要るのが世の常だ。
何よりも、洋二郎の疲労具合も深刻だった。
洋二郎はあの日から、息の仕方も忘れるような暗鬱とした感情を、心の奥に棲まわせていた。
一時的でも構わない、騙し騙しでやってくために、仕事が必要だったんだろう。
あれ以来、洋二郎は作業場どころか離れにだって足をむけてはいなかった。あの日の記憶はいつだって、洋二郎を苛んでいた。
それに何より、あの部屋にはね、紫苑があのままいたんだよ。首と胴とを引き裂かれ、顔を潰した、あの日のままね。
洋二郎はあの人形を、どうすることもできずにいたのさ。
完全に、壊すこともできただろう。
火にくべることも考えはした。
供養をするのも考えた。
だがそのどれも、洋二郎は自分で選べやしなかったのさ。
それが何故かは、当人だってさっぱりわからなかったがね。
ただ幸いにして、洋二郎の作業場は、来客にすぐさま対応できるよう母屋の部屋を使ってたのさ。
あの日の場所に触れることなく、仕事はできる状況だった。
いつまでも、怖れてばかりはいられない。清一郎があんな状態だからこそ、洋二郎は己を奮い立たせてたんだ。
清一郎には及ばぬものの、洋二郎とて名があるからね。
久方ぶりの再開も、嬉しいことに仕事はぼちぼちあったというよ。
だけどねぇ。
洋二郎に棲まったモノは、想像以上に深刻だった。
いざ作業場に座り込み、雛人形の下絵を描こうとしたけどね。



洋二郎の左手は、筆を握ったそのまんま、まったく動きはしなかったのさ。



洋二郎は呆然とした。
そりゃそうだろう。洋二郎とて人形作りに懸ける想いは、清一郎にも劣らない。
幼い頃から兄の背中をしかと見て、それしか知らずに育ってきたんだ。
確かにね。清一郎の、己の命を注ぎ込むような取り組み方とは違ったよ。
とは言ったって洋二郎とて、依頼主の話を聞いて心の裡を感じ取り、それに見合ったものをこさえる、そんな作り手だったんだ。
芸術気質の清一郎に、職人気質の洋二郎。
本人だって、それを重々承知していた。清一郎を追いかけつつも、己が人形作りの道を探して精進していたよ。
清一郎とて洋二郎には何にも言いやしなかったがね。さるご贔屓のお家の方に、弟の腕を聞かれた時にゃ、自分と違った魅力を持った、いい人形師になることでしょうと、そう答えたと言うんだよ。
表情なんざ滅多に変えないあの能面男がね、他人が容易く読み取れるほど、目元を緩ませながらだよ。
そんな男が、その一切を失ったんだ。洋二郎の絶望たるや、想像できぬものだったろう。



どれだけそうしていたことか。
洋二郎はふらふらと、離れの部屋を後にした。
辺りはすっかり日が暮れて、薄暗闇に呑まれてた。
あの日障子を照らした月も、この日は姿を隠していたよ。
行灯の火が灯されたなら、燃える油の音までも耳にできたかもしれん。どこか骨身に染みてくる、静まりかえった夜だった。
暗闇の中、ぽつりとそこに置かれたように、蒲団に臥せた清一郎。
洋二郎は背中を丸め、その傍らに座ってた。
きっともう、習慣になっていたんだろうよ。足が勝手に、清一郎のその傍らに、洋二郎を導いたのさ。
日に足繁く部屋に通えば、足だって、知らず覚えるもんなんだろう。
二人の間にゃ何もない。ただただ無音の時間が過ぎた。
それでもね。きっと何かがあったんだろう。
その情景を思うとね、アタシゃどうにも言葉がないよ。



俯いて黙りこくった洋二郎に、ふと温もりが触れたのさ。



あぁ、そうだよ。お前さんの言う通り。
それはねぇ、寝たまま何にも返さなかった、清一郎の指だった。
すっかり草臥れちまいやがった、清一郎の指だったのさ。
洋二郎はわけもわからず、咄嗟に顔を持ち上げた。
弾みがついたそのせいで、萎びた指は頬の上から滑っていったが、洋二郎は逃さなかった。
縋るように握り締め、清一郎のその顔を、身を乗り出して覗きこんだよ。
そこにはね。黒々とした光の奥に、確かに意思の力を持った、清一郎の眼があった。
洋二郎は問いかけた。必死の思いで問いかけた。
「兄者、兄者、わかりますか。私が誰か、わかりますか」
食い縛る、歯の隙間から息を吐き出し問いかけたのさ。
清一郎は答えなった。声に出しては答えなかった。
だがしかし。
渇いた目元を、わずかながらも緩めるそんな表情が。
洋二郎には充分に、答えになっていたんだよ。
そうそれは、清一郎が微笑む代わりによく見せた、見知った仕草だったのさ。
さっき話したご贔屓さんに見せた顔、あれとおんなじだったんだろう。
そこにはね、「弟なんぞおりはしない」と言い捨てた、狂った男はいなかった。
そこにはね、洋二郎が誰よりもよく知っている、たった一人の兄がいたのさ。
洋二郎は堪らずに、握った指を額に押し付け、声をあげて泣きに泣いたよ。
色んな想いを抱えてたろう。色んな言葉が溢れてたろう。
その何もかもがごちゃ混ぜになり、涙となっていたんだろうよ。
年甲斐もなくしゃくりあげ、肩を震わせ鼻まで垂らし、喉が干上がり貼り付いて尚、洋二郎は男泣きを止めることなく泣いていた。
そりゃあもう、見れるもんじゃあなかったろうよ。大の男が兄の手抱いて、おいおい泣いてやがるんだから。
だがらって、誰が泣くのを止められたろう。
いや誰だって、洋二郎が咽び泣くのを止められなんざしないだろうよ。
清一郎の指先が、洋二郎の手のひらの中、ひくりと動くその度に。
幼い頃に仏頂面で、「泣くな」と頭を撫でられた、そんなことを思い出し、洋二郎はますますしとどに頬を濡らしちまったのさ。







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10.04.25


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