『彼女、できた』
 放課後、咲き誇る桜を一緒に眺めていた。
 そんな中、不意に紡がれた、言葉。
 一枚の花びらが、ハラリと落ちた。





01. 桜片





 授業が終わったと同時にざわめきを取り戻す教室内。
 友人と他愛無い話をする者。
 他のクラスへ行こうと席を立つ者。
 それぞれが授業から解放され、短い休み時間を有意義に過ごそうとしている中、彼女は一人、席についたまま、ただ外を眺めていた。
 机には、既に終わった授業の教科書やノートが、端に寄せられることもなく、授業を受けていた状態そのままで放置されている。
 窓の外に、特別目を引くものがある訳でもない。
古びた学校の正門、規則正しく並ぶ車、そして青々とした緑の葉があるばかりだ。
 だが彼女は、周りの音など一切聞こえていないかのように、ただただ窓の外を見つめていた。
「高須賀。目開けたまま寝るなよ」
 突然、丸められたノートが彼女の頭に振り下ろされ、まぬけな音がする。
 それでようやく、彼女──高須賀藍は、頬杖をやめて今までまったく動かさなかった視線を、声のするほうへと移した。
「……早瀬」
「授業、とっくに終わってんだけど?」
「知ってる。ちゃんと起きてたから」
「そ。じゃ〜何してたんだ?」
 尋ねてくる彼──早瀬巧に、藍はチラリとまた窓の外へ視線を投げた。
 陽の光を反射して青々とした色を見せる葉が、風に吹かれてサワサワと音を鳴らした。
「……ちょっと、ね。考え事してて」
 外からも彼からも視線を外し、返された声は、先程よりも小さく聞こえた。
 それには気づかずに、巧はひょいっと肩をすくめてみせる。
「そっか。なんかヘコんでるみたいに見えたからサ。違うんだったらいいんだ。ま、何かあったら言えよな?」
 彼の大きな手のひらが、優しく藍の頭に乗せられる。
 その言葉と仕草に、藍はふわりと微笑んだ。
「ありがと。でも、なんでもないから」
「ん。わかった。あぁ、それで……と、悪い」
 二人の会話を遮ったのは、無機質な携帯電話のバイブの音。
 頭から離れ、携帯を取り出そうとするその指先を、藍は無意識に目で追いかけていた。
 けれどその視線は、携帯のアンテナ部分が見えたところで意識的に逸らされる。
 きっと、着信を示すランプの色は、いつもと同じローズ。
「悪い、メール返してもいいか?」
 申し訳なさそうに聞いてくる巧に、藍は小さく笑みを返した。
 先程頭の上に置かれていた手より一回り小さい手を、机の影できゅっと固く握りしめて。
「彼女さんからでしょ? 返さないでどうするのよ?」
「……サンキュ」
 そう言って、画面を見つめる巧をしばし見つめた後、藍は視線を再び外へとずらした。
 桜が咲き乱れていた頃、そこは淡いピンクで染められていた。
 手に触れられる場所にいても、その場所に、意味はない。
 手に込められる想いが、全てだから。
 ──例えば、頭に乗せた手のひらと、メールを打つ親指のように。
 チリッと、どこからか痛みがはしる。
 眉を顰めて注意深く自分の体を見ていけば、手のひらに、三つの爪痕がしっかりと残っていた。
「また、やっちゃった」
 こぼした言葉は誰に聞かれることもなく、彼女の胸に落ちていった。
 痛んだのは、手のひらだけだったのか。
 初夏の爽やかな風が、今は青葉へと姿を変えた桜の木を、小さく揺らしていた。






 通常、部活の練習がフリーだと言われれば、それは自主練習だ。
 練習をする、しないは各々の判断に委ねられる。当然、休養をとる部員もいるだろう。
 しかしそれが全国大会常連のバレー部ともなれば、自主練習の参加率も高い。
 その光景は、通常練習とさして変わらないようにも見える。
 けれど最終的に早く切り上げてしまうのは二軍、三軍の面々であり、最も練習量をこなすのはレギュラーであることが多い。
 既に一年生の頃からレギュラー入りしていた巧は、まさにこれの典型だった。
「おい早瀬」
 声をかけられたのは、そんな彼が、普段直行する部室棟とは正反対の、校門の傍を歩いていた時だった。
 振り向いた先にいたのは、彼と同じく一年時からレギュラーをしている、佐久間裕哉だ。
「自主練出ないのかよ?」
「悪ィ、今日はパスで。もし聞かれたら伝えてといてくんない?」
「……そんなんで、レギュラー落ちても知らねぇぞ」
 ふざけて悪態をつく裕哉に、巧は口元を緩めて言ってのけた。
「もし落ちたら指差して笑っていいぜ?」
「…ふん、大した自信だな」
「お互い様だっての。……お前も、行かなくていいワケ?」
 取り出した携帯で時間を確認し、巧が裕哉に尋ねる。
 昨年は部活だけでなく教室でも顔を合わせていた仲だ。
 彼の様子からこの後の彼の用事を悟った裕哉は、ニヤリと厭味な笑みを浮かべて答えた。
「言われなくてももう行く。そっちも、女待たせてるんじゃねーよ」
「いらない心配してんじゃないよ。そんなことしてません。てか引き止めたの佐久間だろ?」
 再び叩かれた軽口を、今度はしっかりと返してくる巧。
 恋人のことが話題に出ると微妙に反応が変わる彼に、薄く笑いながら、裕哉はもうひとつのことを考えていた。
 それは、思いもかけず知ってしまったこと。
 その目から、声から、表情から溢れ出す、想いを知らなかった訳じゃない。
 心の機微には聡いほうだ。必死に隠そうとしていた、そして今も隠し続けているであろうその想いを、誰よりも早く察したのは、ただ身近にいたからというだけにすぎない。
 きっと彼女は、あんな些細な違いも敏感に感じ取っているのだ。
 その度に、傷を増やしているのだろうか。
 見える傷と、見えない傷を。
「うるせーよ。スケコマシが」
「誰がだ!?」
 さすがに聞き捨てならなかったのか、ムキになって反論してくる巧を止めたのは、手の中で微かに震える携帯だった。
 赤いランプが、彼をせかすように点滅していた。
「ワリ、それじゃオレそろそろ行くわ」
「あぁ。じゃぁな」
「おう」
 挨拶もそこそこに、慌しく歩いていく巧。
 そんな様子を見やり、裕哉は踵を返し部室棟へと足を進めた。
「もしもし? あぁ悪い、まだ学校。あぁ、うん、それじゃぁ……」
 恋人と話す巧の声を背中で聞きながら、彼はふと視線を上げた。
 そのまま立ち止まること、ほんの数秒。
 しかし押し戻すように前を見据え、何事もなかったかのように再び歩き始める。
 そこにあるのは、まばらに人が残る教室。
 その傍で、緑葉が小さく揺れていた。






 ひとつ、ふたつ。
 水の滴る音を聞きながら、藍は排水溝に吸い込まれていく水をぼうっとみつめていた。
 暦の上では初夏とは言えど、まだまだ肌寒い季節。走って体がほてっていても、水をかぶったままでいるのはあまりよくないだろう。
 ひとつ、ふたつ。
 顎のあたりで小さく揺れる毛先から、再び透明な雫が落ちていった。
「……!?」
 唐突に、ボスッと間抜けな音をたてて、彼女の視界が淡いブルーに包まれる。
 我に返った藍がそれに手を伸ばせば、ふわっとした柔らかい感触が手のひらを撫ぜる。
 そこに、背後から低い声が響いた。
「風邪ひきたいのか、お前は」
 ハラリと目の前の青をまくり、振り返る彼女。
片足に重心をかけ、呆れた表情で彼女を見下ろしていたのは、かつてのクラスメイト、裕哉だった。
 半袖にハーフパンツという、藍とさして変わらないその格好。彼も部活に出ていたのだろう。
「このタオル、佐久間の?」
「あぁ」
「そっか、ありがとね。顔、洗ったはいいけどタオル忘れちゃって」
「バーカ」
「いたっ!」
 コツンと軽く彼女の額をこづく裕哉と、それにおおげさに反応してみせる藍。
 その光景は、一年の頃の教室風景とさして変わらない。
 違うのは、この場に彼がいないことだけだ。
「陸上も今日はフリーなのか?」
「そう。大会明けだし、顧問もたまたま出張でいないみたいで。……でもバレー部もなんて珍しい」
「知ってたのか」
「だって……じゃなきゃこんなとこで喋ってられないでしょ?」
 全国大会常連のバレー部は、厳しいことで有名だ。本来の練習中ならば、無駄話などしていられない。
「── それに、早瀬が彼女さんとデートみたいだったから」
 ……あの後。
 担任など気にも留めない様子で、机の影で携帯を開いていた巧は、HRが終わるとすぐに教室を出て行った。
 彼が、フリーとはいえ練習に出ないことなどめったにない。
 それを休んでまで優先するものなんて、彼と親しい人ならすぐに答えが出るだろう。
 一年の頃、よく一緒に過ごしていた、藍と裕哉のように。
 ぽつっ
 またひとつ、タオルの下から雫が落ちた。
「ずるいよね〜、一人だけさっさと彼女作っちゃって。 ……あぁ、でも佐久間もイロイロあるみたいじゃない? 作らないだけで」
 その明るい声も表情も。決してわざとらしいところはなく。
 しかし、だからこそ、彼女の想いを知る裕哉を複雑な気持ちにした。
 体の影で、固く握られた右手。
 それを目の端に留めながら、裕哉は額から流れる汗を拭った。
「……お前は誰に何を聞かされてんだよ?」
「女のコは恋の話が大好きなのよ。それが他人の話なら尚更ね」
「お前もか?」
「さぁ? それはご想像にお任せするわ」
「この…」
 小さなからかいの笑みをこぼす藍。
 そんな彼女に、がっちりとした長い腕が伸びる。
さすがに一年共に過ごせばわかるのか、それをあっさりとかわす……が。
「甘いんだよ」
「あぁ、ちょっ……」
 くしゃくしゃと、自分が被せたタオルごと藍の頭を掻き回す裕哉。
 それが、彼の手の動きに反して意外なほど優しかったことに、当の本人すら気づいてはいなかった。
「佐久間っっ!」
「変に絡んできたお前が悪い」
「嘘は言ってないし」
「お前……」
「裕哉ーっ」
 少し高い、よく通る声が、二人の耳に届く。
 あたりを見回す藍。対して裕哉は自分が歩いてきたほうへと目をこらす。
 視線の先には、長い髪を結わいたジャージ姿の女子生徒がいた。
 裕哉の視線をたどりその姿を捉えた藍が、口を開く。
「マネージャー?」
「あぁ」
「名前で呼ぶなんて、珍しいね」
 部活の性質に加えてその整った容姿から、何かと騒がれることが多い裕哉と巧。
 声をかけられても柔和に応対する巧に対して、初対面と言っていい女子生徒からいきなり名前を呼び捨てされ、眉間に皺をよせていた裕哉を、藍は何度か見たことがあった。
「幼馴染なんだよ。年下のくせにずっとあの呼び方だ」
「……サマ付けにでもさせればよかった?」
「バーカ」
 そう言って小さく笑うと、彼は先程のふざけあいで肩までずり落ちていたタオルを抜き取る。
 フワリ
 最初とは異なり、そっと。
 水滴を吸い込んで、より鮮やかな青に染まったタオルは、再び藍の頭に被せられた。
「え、タオル……」
「いいから。ちゃんと乾かしとけ」
 戸惑いの声をあげる彼女の頭を軽く叩いて、有無を言わさぬ口調で答える裕哉。
「ありがと」
「風邪ひいて、俺にうつすんじゃねぇぞ」
「はいはい、心得ておきます」
「じゃあな」
「うん、引き止めてゴメンね」
 藍の言葉を背中で聞き、手をヒラヒラさせることで応える。
 その様子を見つめながら。
 体育館へと戻っていく後姿に、藍はそっと声を漏らした。
「……ありがと」
 息を吐き出すように。彼に届ける為ではない、言葉を。
「……」
 落とされた視線は、ただ自身の掌に注がれていた。
 聞こえていないフリをして、ただただ彼女の本音を背中で受け取ることしか出来ない、彼女の言葉を正面から受け取めることすらできない、無力な手を。
 彼は、開いていたその手を強く強く握った。
 握り締めるように。
 握りつぶすように。
 蛇口から落ちた最後の雫は、水面を揺らし、小さな波紋がゆるやかに広がっていった。



menu // next



05.03.07 // 05.08.16 修正

inserted by FC2 system