廊下まで聞こえた二つの声に、扉にかかった手が動きを止める。 そよぐカーテンの合間から見えたのは、彼女の手と、表情。 それが、全てを語っていた。 02. 薄膜 涼しげな風が髪を煽る。 教室内の生温い空気から逃れるためにベランダへ出た裕哉は、埋め尽くすような緑色に一瞬目を細めた。 薄い霞のような色をしていた桜の花が緑の葉になってからしばらく経つというのに、この樹の色を緑に染め上げることができないでいる自分の心を、蔑むように。 桜の樹を避けるように、裕哉は背を手すりにあずける。 視線を右に動かせば、そこには当然のように同じベランダが続いている。 今は何もないその場所を無意識に見てしまう自分に気づき、裕哉はひとりため息をついた。 桜も、ベランダも。 ごく当たり前にあるものなのに、全てあの日に結び付けてしまうのは自分なのだ。 「乙女かよ俺は」 「それはキモイんじゃない? 確実に」 あるはずのない相槌のせいか、聞かれたくないことを聞かれたせいか。 裕哉の眉間に深い皺が刻まれる。 その表情を隠そうともせずに、彼はゆっくりと声のした方へ視線を向けた。 「……どこから湧いてきた」 ベランダの入り口を塞ぐような形で佇む彼女は、笑みを抑えきれないらしく未だに顔を緩ませている。 「失礼ねぇ〜、今度の練習試合の件で話があったのよ。 そんなに恥ずかしがらなくてもいいでしょうが」 他の女子なら一瞬怯んでしまうような彼の態度をこうもあっさりと受け流せるのは、教室に部活にと、それこそ四六時中顔を突き合わせているからこそだろう。 「高城……」 「残念でした。睨まれたところで恐くありません〜。 二年目にもなればいい加減コッチも慣れるわよ」 虫を追い払うような手つきで手を振って、高城依子は彼の隣へ歩み寄る。 首を左右に傾げてからくっと背伸びをすると、関節の鳴る音が裕哉の耳にまではっきりと聞こえた。 「おい、そこの老体」 「ちょっとその言い方はないでしょ! 誰の為にあたしが身を粉にして働いてると思ってんのよ! 働き者のマネージャーを労わる気持ちとかないワケ?」 二年になってからチーフマネージャーを任された依子は、部活以外の時間帯も大抵なんらかの仕事に追われていることが多い。 大所帯の男子バレー部の宿命とでも言うのだろうか。 こうして一緒に過ごすのも、二年になってからは久しぶりだった。 一年の頃は、巧と藍も含めた四人で、それこそよく一緒に過ごしていたというのに。 藍と裕哉達が親しくなったのも、名簿で彼女の前だった依子が、彼らのもとによく連れてきていたからだった。 「しっかし、久しぶりだね、こういうの」 「……あぁ」 それまでのからかうような声色ではない声に、裕哉は素直に頷いた。 「珍しいんじゃない? アンタが一人でボーっとしてるなんて」 腕を組むような形で手すりにのせ、依子は彼のほうへ視線を投げる。 「──別に。ただ暑苦しかったから出ただけだ」 裕哉は目をあわそうとはせずに、慌しく動く教室内を窓越しに見つめていた。 はぐらかした答えに気づかないほど、依子は鈍くない。 それをわかっていながら裕哉が言うのは、ある種の意思表示だった。 おそらくそれにも、依子は気づいている。 「ふ〜ん、ま〜たそーいうコト言うワケだ、アンタは」 「……は?」 いつもならそれを汲んでくれる彼女の、普段とは違う様子を感じ、裕哉は疑問符を浮かべてそちらを見やる。 直後、乾いた音と共に彼の額に軽い衝撃が伝わった。 余韻を残す伸ばされた指の形と、どこかすっきりしたような依子の表情で、彼はようやく何をされたのかを察した。 「てめぇ……!」 「ふふん、何様俺様佐久間様にデコピンかますっていうのもなかなか爽快ね!」 「──いっぺんココから落ちてみるか?」 「お先にどうぞ?」 これ以上は無意味な応酬だと気づいたのか、裕哉は大きくため息をついた。 「悪いけど、いつまでもはぐらかされてあげるほど、あたし優しくないし。 そのデコピンは佐久間の自業自得よ」 突きつけられた言葉に、彼は小さく目を見開く。 そのまま顔の表情を隠すように右手で頭を抑えながら、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。 手の影から覗く口元には、力なく薄い笑みが浮かんでいた。 「お前、なんなんだよ? 部活の話はどこ行った」 「……部活の話は後でもできるからね。少しでもあーいうの見せた時じゃなきゃ、アンタめったに自分のこと話さないじゃない」 反転し、先程までの裕哉と同じ体勢をとる依子。 彼女の視線は右下にいる裕哉ではなく、少し離れた隣のクラスのベランダに注がれていた。 あの日を思い返していた、彼のように。 それを見て、裕哉は再びため息をこぼした。 「全部見てたのか」 「……悪かったわよ」 想いをひたすら隠し通していることを知っているだけに、依子も素直に謝る。 裕哉は誰に対しても、その想いの断片を口に出そうとはしなかった。 ああやって行動として現れることすら稀だ。 それほどに、彼の自制は完璧だった。 それが誰の為なのかを知っている、依子の前でさえも。 だからこそ、彼女はこうして強硬手段を使っているのだ。 隣ではなく後ろを選んだからこそ溜まっていく紅い破片を、少しでも払拭する為に。 「おい」 静かな、それでいてどこか張り詰めたような空気を断ち切ったのは、あからさまに不機嫌さを撒き散らしたその声だった。 「なによ」 「変な気ぃ回してんじゃねぇよ。お前のその溶けたノーミソじゃ、高須賀の話聞くだけで容量限界だろーが」 今までの素振りを掻き消すように裕哉はその場に立ち上がり、雑に依子の頭を叩く。 そしてそのまま教室の入り口へと近づいていく。 「ちょっと! またそうやってアンタは……!」 「高城」 不意に届いた、先程とはまた違う小さな呟きに、依子は口を噤んだ。 「あいつ……」 振り向きながら、それでもしっかりと彼女の瞳を捉えて紡がれた裕哉の言葉に、依子は思わず目を見開いた。 雲が流れたのか、ベランダに伸びた二人の影は、それよりも大きな雲の影に呑まれてしまった。 授業が終わった教室は、解放されたざわめきに満ちていた。 どこのクラスでも、その光景は変わらないようだ。 例えば、あの桜の木が違う窓から見えようとも。 「たぶん中に……ほら、あそこ」 裕哉とベランダで話をした次の休み時間、依子は隣の教室に来ていた。 出入り口の席に座る男子生徒を捕まえた依子は、彼の視線をそのまま辿り、目的の人物を見つけ出す。 「ありがと」 小さくお礼を言い、そのまま教室の中へ足を踏み入れる。 まだ授業が終わって数分しか経っていないせいか、教室内にはほとんど全員がいるようだった。 隣のクラスの彼女が珍しいのか、何人かの生徒が依子を横目で見ているが、当の本人は周りの様子になんて目もくれない。 「あ……」 「あ?」 「ちょっとそこどいて、早瀬」 藍の視線に、彼女の前の席でイスにまたがり向かい合うように座っていた巧が、顔だけを後ろに向ける。 その真後ろに仁王立ちしていた依子は、有無を言わさぬ勢いで一言そう言い放った。 「ちょ……依子?」 「へ? え、どーしたよ?」 突然の依子の言葉に混乱する二人。 だが依子は二人の様子を気に留める素振りすら見せずになおも巧に迫る。 「い・い・か・ら! 早瀬はちょっとはずして。藍に用があんのよ」 「え〜、今オレが高須賀と話してたのに?」 「……アンタのドリンクにだけタバスコ入れるわよ」 「おい! なんだよそれ! 職権濫用じゃね?」 文句を言いながらも席を譲る巧。こんなやりとりはいつものことなのだ。 「悪いわね」 「何を今更。んじゃ、ごゆっくり」 手をひらひらさせながら歩いていく巧を見て、依子は彼が使っていたイスに腰掛ける。 ただし、巧とは違い隣の席が体の正面にくるような横がけでだが。 「依子……相変わらず強引だなぁ」 「あぁでもしないと早瀬はどかないでしょ」 苦笑を浮かべる藍に、依子は肩をすくめてきっぱりと言い放つ。 思ったことをはっきりと言う依子の口調は、多少キツイような感じも受けるが、彼女には悪意がないのを友人達は十分知っている。 藍や巧、それに裕哉にしてみれば今更だ。 「……何話してたワケ?」 一瞬間をおき問いかけた依子は、藍の瞳がかすかに揺らぐのを見逃さなかった。 二人に近づくまでの間に、依子は、巧からはちょうど机の影に隠れて見えない位置にある、握られた藍の手のひらに気づいていた。 「別に……大した話は」 「嘘つけコラ」 「いたっ」 小さな悲鳴と共に、藍の額に乾いた音がする。先程裕哉に喰らわせたモノと同じものだ。 「いきなり何……」 「アンタが手ぇ握る時は、大抵しんどい時でしょうが」 思いがけない言葉に、藍は目を瞠った。 手を握る癖を自覚はしていたが、まさかその意味を自分以外の人が知っているとは思っていなかったのだ。 「……知ってたんだ?」 ふと、彼女に今までとは違った表情が浮かんだ。 それは、微笑みを模した違う何か。 藍の表情を見咎めるかのように、依子の眉間に皺が刻まれる。 軽く俯いている藍は、それに気づいていなかった。 「バカ。依子サマをなめんじゃないわよ? 見てる人は見てるわ」 台詞とは反対に柔らかくなった声色に、藍は顔をあげる。 「ゴメン」 真っ直ぐ見つめてくる依子の表情に、藍は小さく呟いた。 この親友は、どんなに誤魔化そうとしても誤魔化されない。 誤魔化されたように見える時もあるが、それがフリであるのを藍は知っていた。 それは、藍の本意ではないはずなのに、そんな依子に安心している自分がいることも、知っていた。 じんわりと侵蝕するように広がる感情。 自己嫌悪という名のそれは、暗く錆びた匂いを振り撒き、藍自身を溶かしていく。 「バカ」 額に軽く何かが当てられたのに気づき、藍は我に返る。 依子が、ノックするような手つきで彼女の額を叩いたのだ。 「アンタはね、基本考えすぎなのよ。 今だって、変に誤魔化してたことイロイロと考えてたんだろーけど、はっきり言ってあたしはそんなもん欲しくないワケ。わかる?」 「……でも」 「とにかく、あたしのコトは今どーでもいいのよ。 ──しんどい時は、自分のことだけ考えてりゃいいの」 そう言って、乱暴に藍の頭に置かれた依子の手は、まるきり誰かと同じ仕草だった。 藍は、それが誰のものか、気づいていなかったけれど。 「ありがと」 ふわりと笑みを浮かべた藍の表情に、依子は肩を撫で下ろした。 「で? 何話してたの。この際だから吐いちゃいなさい」 依子がこうもしつこく食い下がるのは、実は珍しい。 はっきり物を言う性格ながら、彼女は基本的には相手の意志を汲み取り、相手の好きなようにさせる放任主義なところもある。 そんな彼女がこうして想いを吐き出させようとするのは、そうしなければならない時なのだ。 「特に何も。あえて言うなら、世間話、かな」 依子から視線をはずし、窓の外を見つめて彼女は呟いた。 そこで何があったか、藍から聞いている依子は、前の時間に話していた時の佐久間の様子を思い出し、心の中でため息をついた。 彼女しかり、彼しかり。 「……あたしの周りは、変な所で頑固な奴が多すぎだわ」 諦めにも似た響きを持つその声を耳にして、藍が視線を戻す。 「申し訳ない限りデス」 「もう慣れたわよ」 容赦ない言葉に、藍はすまなそうに微笑んだ。 「依子サンには、いつもカンシャしてます」 「当たり前だっての。この超多忙なスケジュールをどうにかこうにか調整して来てやったのよ。カンシャして当然。むしろひれ伏せ!」 あえて大げさに振舞うその様子に、一瞬呆気にとられた藍も、依子と顔を見合わせて笑い出した。 「あ〜なんかクラス違くなってからヒサビサだね、こーいうの」 未だに肩を震わす藍を見ながら、依子の頭には先程の裕哉の言葉が響いていた。 『あいつ……』 風の吹き抜ける音が、耳を掠める。 『泣かねぇよな』 日差しを遮る雲のせいで、彼の表情は見えなかった。 「藍」 キュッと唇を噛み締めて、依子は藍と向かい合う。その様子に、藍は小さく首を傾げた。 「どうしたの?」 「……ア」 「おーい、高城〜! ちょっと〜」 廊下側からかけられた巧の声に、依子の言葉はあっさりと掻き消されてしまう。 「だぁっ、アイツは!!」 そう言って依子は巧を睨み付けるが、巧の隣にいたある生徒に目を留め、すぐにその表情は崩れた。 「あれ、あの子……」 声に釣られて同じくそちらに目をやっていた藍が、小さく漏らす。 「藍、アンタ真樹のこと知ってるの?」 「え? ……あ、そうだ、バレー部のマネさんだよね? 佐久間の幼馴染の」 記憶を辿り結びついた答えを依子に確認する藍。依子は無言で頷いた。 「でも何だろ、わざわざ」 「とにかく、後輩の呼び出しじゃ行かなきゃだよね? チーフマネージャーさん?」 一見可愛く笑ったように見える顔の奥にある、悪戯じみた笑みは、依子の頭に違う人物をありありと浮かび上がらせる。 彼女は、もう何度目かの諦めをこめたため息をついた。 「藍、アンタ……」 「へ? 何?」 無自覚らしいその様子に、「何でもない」と告げながら、依子は席を立ちあがる。 「それじゃ、あたし行くけど、いい加減適当なところで吐き出しなさいよ? クラスとか部活とか、そんなもん関係ないんだから」 「……うん、わかった。ありがと」 「わかったんなら、今度態度で示しなさい」 相変わらず容赦ない言葉に、藍は小さく苦笑した。 ここまで彼女が言うのが何のためか、わからないような藍ではない。 「それと」 言葉を切り、口を二、三回開け閉じしてから、依子は一言呟いた。 「心配してたわよ、佐久間」 「……うん。ごめん」 「それは」 「わかってる」 目を見てしっかりと言い切る彼女を見て、依子は続きを止めた。 藍の顔に浮かぶ、表情を見て。 「高城〜!」 「ハイハイ! じゃぁね」 去り際に藍の頬を軽く引っ張り、何事もなかったかのように二人の元へ歩いていく依子。 やられた当の本人は、文句も言わずに頬を何度かさすっていた。 「早瀬先輩」 「ん? どーした」 依子の姿を確認し、真樹と呼ばれた彼女は静かに問いかけた。 視線を、依子が今までいた場所にずらしながら。 「より先輩と一緒にいた人、どなたですか?」 「アイツ? 高須賀藍。 見かけたことある? あいつ陸上部だからもしかしたら見たことあるかもな」 「そうですね……」 巧の説明の間も、彼女は藍を見つめていた。 依子も、藍も、彼女の視線には全く気づいていなかった。 「だめだなぁ……ほんとに」 イスに座ったまま、藍は背をそらし天井を仰ぐ。 いつものように窓の外を見ずに、あえてそうしたのは、彼女なりの抵抗だったのだろうか。 閉めきられた教室内では、風が吹いても葉のざわめきは聞こえてこなかった。 |