それは、紫苑が出来て二月経った、夏の盛りのことだった。
その日は出かけの仕事でね。
お得意様の駒井様の御宅に上がり、前にお買い上げ頂いた、飾り雛の修理に行った帰りだった。
滅多に余所など行かないからね。
清一郎も洋二郎も、物珍しく、宿場の町でみやげや何やら物色してた。
その時さ。
清一郎が、露店の扇子を買い上げた。
はて、珍しい。
洋二郎がそう思うのも無理はない。
屋敷に篭って季節の機微などお構いなしの清一郎だ。
扇子など、自分で買ったこともなければ、めったに使ったためしもない。
そんな男が、自ら選び買ったんだ。
何かあると勘ぐっちまうは当然さ。
またそれが、藍や鈍ならいざ知らず、風に舞い空を飛び交う燕の下にそっと花咲く紫陽花なんぞを描かれた扇子ときたもんだ。
なんとも夏に相応しい、優美な絵柄の扇子じゃないか。
これはもう、どう考えても女物に違いない。
洋二郎じゃなくたって、いつもと違うと思うだろうよ。
だとしたら、一体誰に贈るのか。
はた、と洋二郎は考え込んだ。
奇人だ何だと言われちゃいるが、清一郎とて立派な男。心通わす女性がいても、何ら不思議はないだろう。
弟子として、一人のしがない人形師として、清一郎のその腕前に確かに自分は惚れている。
だがそれ以上に、何と言っても兄弟さ。
幼い頃に二親亡くした洋二郎には、清一郎は親も同然。奇人だ何だと言われる程に仕事一途になったのも、元は自分を育てるために、他の雑多をさしおいて人形こさえ続けたせいだと、洋二郎は知っていたのさ。
子がいなければ人形作りの技も絶えるが、そんなことは二の次だった。
それよりも何よりも、洋二郎はね、ごくごく普通の幸せを、清一郎にはどうにか送ってほしかったのさ。
だがしかし、外の使いは基本は全部、洋二郎がやっている。
依頼主さえ応対するのは自分ばかりさ。
ごくたまに、こうして外には出るものの、それとて自分と二人がほとんどのはず。
心に留めた相手がいるとて、一体どこで知り会ったのか。
わずかな疑問が頭をもたげていたものの、淡い期待を捨て切れなかった洋二郎、ここぞとばかりに清一郎に問いかけた。



「この扇子、一体どなたに贈るのですか?



清一郎は扇子を見たまま視線もくれずに呟いた。



「紫苑にな」



兄の答えに、洋二郎は図らずも、溜息ひとつこぼしちまった。
人形を、より引き立てる小物のひとつ。
何故そのことを忘れてたのか。
当代希代の人形師・吉浜清一郎ならば、これ以上ない答えだろうさ。
洋二郎が考えた、願望じみた考えよりも、確かにらしいというもんだ。
だけどねぇ。
兄のためよと淡い期待を持ったとて、誰も責めらりゃしないだろうよ。
いつ何時も、人形だけを考える。それは確かに、洋二郎が憧れた清一郎の姿だが。
それでも、さ。
洋二郎を思うとちょいと、同情したくもなるわなぁ。
洋二郎とて、己の浅慮を恥じつつも、沈んだ気持ちになっちまった。
「あの人形に飾るのですか」
陽に触れてない、細くしなやかな指先が、広げた扇子を握ったならば、確かに映えるというものだ。或いは帯に差してもいい。
竹の細工も華やかだから、朱の細帯に差してるだけでも映えるだろうと、洋二郎はかの人形の姿に思いを馳せていた。



「いや違う。どうしても、土産がほしいと聞かぬのだ」



きっぱりと、強い声音で訂正された返答に、洋二郎は小首を傾げた。
「違う」とは、一体何が違うのか。
言い方の違いがあれど、紫苑に飾るは同じ事。「土産が欲しいと聞かぬ」と言うが、かの人形がどれほど人間じみたとて、口を動かす筈はない。
はてこれは、一体どういうことだろう?
どれだけ首を傾げたところで、違いがわかる筈もない。
ちょいと妙な言い回しだが、こと人形に関してだけは、奇人だ何だと言われる程に一風変わった感性なのを、弟である己こそ、誰より深く知っている。
「土産が欲しいと聞かぬ」とは、清一郎の作り手らしい、自分の言葉なのだろう。
そう、洋二郎は結論づけて、一人で納得しちまったのさ。
ある意味仕方がないんだろうね。
何てったって、玉を買った経緯があるし、あらゆる物の声を聞ければいい人形は自ずとできる、というのがさ、さっきも言ったが清一郎の持論なんだよ。
何度もそれを言い聞かされてる洋二郎にしてみれば、ちょっとくらいのへんてこりんな言い回しなど、いつまでも、気にすることじゃぁなかったろうよ。
ようやく屋敷に帰るなり、清一郎は足早に、離れに渡って行ってしまった。
此度の仕事の書付だろうと洋二郎は思っていたが、しばらく経っても作業部屋から出てこない。まさかと思うが、外出用の羽織もそのまま仕事をされてはたまらない。仕方がないと着替えを用意し、失礼します、と戸を開けた。
「あぁそうか。気に入ったのか」
いつになく、まあるい声でかける言葉に、拾い手なんぞいる筈も無い。
しかしそれでも、一定の間を置きながら、清一郎は止めることなく幾度も言葉をかけていた。
誰かと話をするかのように。
見えるのは、いつかと同じ背中を見せた清一郎。
その肩越しに、紫苑の髪がさらりと揺れる。よくよく見れば、武骨で長い、紅差す時のみ器用に動くその指先が、紫苑の長い黒髪をゆるく絡めて梳いていた。
飛び込んできた光景に、洋二郎は目を剥いた。
その指先は。
その声は。
伝え切れない想いの残滓を仕草の端にと忍ばせた、男の艶が滲んで見えた。
この二十年、同じ屋敷で過ごした中で、見出せなかった情の色。
洋二郎にも、心覚えのある感情。
だがしかし、それはどうにもありえない。
洋二郎はかぶりを振った。
だってそうだろ?  
清一郎が向かいあうのは、自ら作った人形だ。
どれだけ美しかろうとも、所詮は木彫りの商品さ。
作り手だったら尚のこと。ただの木切れが彫られ削られ、徐々に形を成してく様を、誰より清一郎こそが、その手と頭で覚えていないわけがない。
そう、洋二郎が己を納得させてもね。繰り返される、清一郎の角のとれた低い声、紫苑にかけるその声が、静かな離れに落ちるたび。
洋二郎は、先の見えない澱んだ気配を嗅ぎ取らずにはいられなかった。
だけどねぇ。
罅ってぇのは、音も立てずに広がって、気がつく頃には酷く大きくなってるもんさ。



 清一郎の変貌ぶりは、この件だけにゃ留まらなかった。



 まるで何かが憑りついてでもいるように仕事人間だった男が、十を五に、五を三に、と徐々に仕事を減らし始めた。
元々仕事は多すぎる程、こなし続けていたからね。
清一郎もここらでようやく、自分の時間を持つにしたのか、と洋二郎もさして気にしていなかった。
弟子とは言えど、洋二郎とて他の人形師に遅れは取らぬ腕がある。
ただでさえ、兄貴思いの弟だ。代わりに自分が引き受けようと、考えていたことだろう。
だがそれが、逆に裏目になっちまった。
仕事を減らしてからというもの、清一郎は前にも増して離れに篭っちまったのさ。
それだけじゃぁない。洋二郎さえ、部屋に寄せ付けなくなった。
しまいにゃ仕事もほったらかしさ。
奇人だ何だと散々言われた、あの、清一郎がだよ? 
嘘のような清一郎の変貌ぶりに、洋二郎はわけもわからず離れの部屋に押しかけた。
声をかけても返事はないし、戸を開けようにもつっかえ棒でも差しているのか、開く気配もありゃしない。
耳を澄まして聞こえてくるのは、ただぶつぶつと、何かを呟く清一郎の声だけときた。
何かが、起きている。
洋二郎は、そこで始めて理解した。
清一郎の人形作りは人の呼吸と同じこと。
腕がとれても目を失くしても、吉浜清一郎ならば、死ぬまで作り続ける筈だ。
願望でも押し付けでもなく、洋二郎にとってはそれは、本能的な確信だった。
思えばとうの昔から、その予兆はあったのさ。
それに気づくか気づかぬか。気づいていても見逃すか。
それが道を分けたんだ。
アタシが言ったところでそれは、結末を知る人間の、揚げ足取りでしかないけどね。
とにかく話をしようにも、問うたところで返事はこない。
障子の前の膳を取る、その瞬間を狙おうと、膳を用意し少し離れて廊下で控えていようとも、洋二郎がいるとわかるや飯をとらずにいる始末。
清一郎の身体を思えば、こちらが折れる他にない。
「どうか兄者、後生ですから」
頼み、問いかけ、時には怒鳴り、果ては涙を滲ませながら。震える拳を振りかぶり、洋二郎が血を吐く思いで叫んでみても、清一郎は一向に、顔を見せる気配はなかった。



事が動きを見せたのは、洋二郎が異変に気づき、八日が過ぎた頃だった。
夜の帳もすっかり下りて、誰もが寝静まった頃。
洋二郎は灯りも持たず、離れの部屋を訪れた。
この頃ならば、清一郎とて油断してるに違いない。
幸い月も雲に隠れてわずかに光を放つのみ。これならば、障子に映った影を見られて警戒されることもない。
そう洋二郎は踏んだんだろう。
読みは当たりさ。
確かにこの時清一郎は、すっかり油断してたんだろう。
昼間あれだけ過敏になった洋二郎の気配さえ、この時ばかりは掴めなかった。
そんな余裕はなかったってのが、正しい表現なのかもしれないけどね。
洋二郎は暗がりの中、息を潜めて戸前で耳をそばたてた。
冷たいほどの静けさを裂く、荒れる呼吸と衣擦れの音。
低く掠れて聞き取れぬ言葉の合間に何度も浮かぶ、紫苑、紫苑というその名。
そんなまさか、と喉の奥で止まった言葉のその先を、雲を掃きだし覗いた月が、無残に照らし出していた。



障子に映し出されたのはね。
重なりひとつに絡まりあった、ふたつの黒い影だったのさ。







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10.04.17


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