夜の帳が落ち、星がひとつ、またひとつと瞬き始めるのを、姫は宛がわれた寝具の上からただじっと見つめていた。 目の前に広がる硝子越しの庭は、昼間とは装いを変え、漆黒に染まっている。 夜風に乗って聞こえる、囁くような虫の音がなければ、そこはまるで暗闇の洞穴のようだった。 部屋の明かりは、ついていなかった。 姫へと宛がわれた寝室には、メイドが用意したのか、あらゆる物が用意されていた。 家具はもちろん、夜着、美容品、果ては下着まで、すべてダスク帝国一流の品が揃えられていることは、見慣れていない彼女でも一目で見てとれた。 だが、姫がそれらの小物に手をつけることはなかった。 恐らく絹でできているであろう、ダスクの夜着──ネグリジェは、クローゼットの中に素っ気なく掛けられている。 祖国から持ち込んだ綿の浴衣に袖を通した姫は、頭からシーツを被り身を縮こまらせていた。 キィィ 背後で響く扉の軋みに、小さな肩がわずかに震えた。 夜も更けた時間。彼女の元に訪れる人物など、一人しかいなかった。 一歩一歩、足音が近づく。 密度を増す、濃厚な夜の気配。 姫は、胸元に引き寄せた手を固く握りしめた。 アマテラス 『──<天照>』 耳に落とされたありえない響きに、姫は身を翻した。 バサァ 暗闇の室内に、青白いシーツが舞う。 月の光を照り返し、銀色が線をなすように薙いだ。 ザンッ しかし、無残にも切り捨てられたのはシーツのみ。 視界を遮る白が晴れれば、姫と男は寝具を挟むように対峙していた。 「さすがは<サン>──太陽の名を背負う姫君だけある。その名の通り、紅い瞳は太陽を秘めているようだ。 夜目が利く」 「……っ」 さも面白そうにからからと笑う皇子に対し、姫は短刀を構えたまま、鋭い眼差しで睨めつけた。 「<天照>は、生まれて間もなく親元を引き離され、暗がりの岩屋で育つと聞いた。お前もそうだったんだろう?」 姫にとって、暗闇はいつも隣にいる友人だった。 暁の姫として生まれ落ちたその日。 同じ日、同じ刻に同じ母から片割れと共に外の世界へと這い出たその日から、彼女はひとつの役目を負った。 天照。 暁において新たな夜明けをもたらす存在。 その役目ゆえ、幼い頃から皇の住まう宮とは異なる社で、昼も夜もなくただひたすらにあらゆる知識に触れていた。 だがそれは、暁にのみ伝わる秘跡のひとつであり、敵国の、しかも皇子が知っている筈のない秘められた事実だった。 「何故知っているのか問い正したいと言った顔つきだな。私や皇帝がお前の祖国の言語を操れたのを忘れたか?」 「!」 「何のために言語を操れたと思う? まさか、お前と話すためと自惚れたわけではないだろうな?」 「……」 「言語を知っているということは、その国の書を読み解けるということだ。お前がどう思っているかは知らないが、この国はかねてよりお前の国に興味を示しているんだよ。それこそ、お前が思っている以上にな」 「……っ! しかし」 「書が他国に渡る筈がない、か? さて。現に私はこうして、お前の国について知識の断片を手に入れている」 「……」 皇子の言葉に姫は押し黙るものの、警戒は解かない。 「だがまさか、口にしただけで襲われるとはな。これが知られれば、お前は明日にでも斬首だぞ」 「……命など!」 「要らないか? 成程。暁の民は誇りのためなら他の何を犠牲にしても構わないか。まったく、短慮で野蛮な民族だな」 『貴様っ!!』 皇子の言葉にカッと目を見開いた姫は、祖国の言語を吐き捨てながら、再びその身を躍らせた。 たん、っと寝具の端を足場に跳ね上がり、一気に距離を詰めると、勢いそのまま短刀を逆手に一閃する。 わずか9歳の少女が繰り出すには鋭い斬撃。 だがその斬撃も、鞘に収めたままの皇子の剣の一振りに難なくいなされる。 その反動で横へと弾かれた姫は、勢いを殺せぬまま壁に強かに身体を打ち付けた。 「っっ!!」 衝撃で、一瞬息が詰まる。 咄嗟に身体の向きを変え、どうにか背を犠牲にするだけでやり過ごしたものの、幼い身体には衝撃が強く、そのままずるずると壁際に身を沈めた。 止めと言わんばかりに、座りこんだ姫の床に広がる浴衣の裾を縫いとめるように剣を突き刺した。 傍に放られた短刀も、皇子の手に拾われてしまう。 「なんだ、もう終わりか?」 『……っ殺してやる!』 身を屈め、真正面から覗き込む皇子の嫌味な笑みを視界に入れながら、姫は掠れた声で吐き捨てた。 『……殺してやる!! お前も、この国も!! 暁に仇なす者はすべて!!』 怒りのせいか、それとも覗く角度のせいなのか。 七色の瞳が燃えるような緋に染まっていた。 「殺してやる、か」 姫の様子を楽しむように眺めていた皇子だったが、ふと、その表情を消した。 「私が憎いか? 私だけでなくこの国が」 「……っ!」 「どこまでも屈しないその気高さは称賛に値するがな。皇帝の言葉を忘れたか?」 「!」 ──状況を見極めねば、誇りも両刃の剣となるぞ。 厳然たる響きを持って告げられた女帝の言葉が、彼女の脳裏をよぎる。 「今一度言おう。状況を見極めなければ、誇りは両刃の剣となるぞ。今のお前ではこの国で何もできやしない。俺の命は愚か、この庭の花一輪、摘むことすらできん」 『そんなこと……っ!』 「ないと思うか? なら、今のこの状況は何だ?」 「……っ」 「お前は、誇りを護るため、俺に剣を向けた。結果はどうだ? お前は屈服され、俺に自由を奪われている。万が一、俺を手にかけたところで、明日には衛兵に捕らえられ、反逆罪で斬首刑だ。帝国は大義名分を手に入れ、晴れてお前の故郷は踏みにじられ、衛星国として俺の兄弟が統治者となるだけだ。それが、お前の望みか?」 「……」 辛辣な、けれど事実を告げた言葉に、少女は顔を伏せる。 ぎりり、と口唇を噛み締める音が、皇子の耳にまで届いた。 「……賢くなれ」 姫の表情を隠す前髪が、節くれだった指先に優しくはらわれる。 「何かを手に入れたいのであれば、力をつけろ」 先程までとはどこか違う、芯の通った力強い声音に、少女はのろのろと顔をあげた。 そこで、底まで射抜くように真っ直ぐな、朱金の眼差しとぶつかった。 「姫として、祖国のため、民のためを真に思うのであれば、感情だけで行動するな。真に国のためにはどうしたらいいか。常にそれを頭に入れて行動しろ。それが国を背負う者の道だ。……お前にも、わかる筈だ」 思いがけない言葉に、姫は皇子から眼を離せずにいた。 今は亡き先代皇帝の第二皇子として生まれながら、母の身分がゆえに皇位継承権最下位に位置する彼を、口さがない臣下が<忘れられた皇子>と揶揄しているのを、少女はこの数日で知っていた。 だがどうだ。 武力を盾に他の国に暴虐の限りを尽くす、野蛮な国家だと蔑んでいたこの国は、継承権最下位の皇子でさえ、国を背負う者としての覚悟を胸に秘めている。 死ぬ覚悟ではない。 生き抜く覚悟を。 「……」 ふい、と目をそらした少女は、握りしめていた拳の力を抜いた。 姫が抵抗をやめたのを見やり、皇子は彼女を縫いとめていた剣を引き抜き、その場に立ちあがった。 「よく考えるんだな」 最後に一言残し、皇子は部屋を後にした。 一人部屋に取り残された姫は、拘束を解かれても尚、その場を動けなかった。 王者を示す冠の代償 |