風が、吹きぬける。
あの日、視界を淡く彩っていた色は、もう既になく。
今はただ、揺れる葉のさざめきあう音が、ただ。





07 . 風音




藍の口をついて出た思いもかけなかった言葉に、依子は動揺を隠すこともできず、ただ彼女の顔を見つめていた。
「藍、アンタ……」
ようやく紡ぎだした言葉も、後が続かない。
そんな依子の様子に、藍は何を思ったのか、大きくかぶりを横に振った。
「えっと、あの、違うの、その……タオル、返そうと思って、昼休みに佐久間を探してたんだけど、その時に……その」
その先を告げていいのかわからずに、語尾を濁す藍。
律儀な藍のことだ。裕哉が告白されていた、という事実を無闇に他人の口から広めたくはないのだろう。
親友のそんな面を充分に知っている依子は、自分から言葉を引き継いだ。
「告白されてた、でしょ?」
「え?」
「相手のコがね、朝練の後に体育館に来てたのよ。たぶん、部員は皆それとなくは知ってるわ」
「そうなんだ……」
あっさりと告げられた依子の言葉に、藍は、安堵にも似たため息をこぼした。
その様子を見守りながら、依子は先を促した。
「……それで?」
「あ、うん……すぐに引き返せば良かったんだけど、なんか、固まっちゃって」
「結果、丸々聞いた、と?」
「う、うん……」
申し訳なさそうに頷く藍を見て、依子は小さくため息をこぼした。
何やってんだ、あの馬鹿は。
未だ体育館で練習しているだろう彼に、内心で毒づく彼女。
「……依子?」
藍に名前を呼ばれ、依子は慌てて意識を引き戻す。
「あぁ、ゴメン。……それで、好きな人?」
「うん……」
曖昧は返事をしながら藍は顔を俯かせた。
「返事の時に、言ってたの。好きな人がいる、って」
すらりと伸びた、きれいに日に焼けた指が、既にケースにしまわれたユニフォームに触れる。
「本人に聞いたら、はぐらかされちゃったんだけどね」
顔を上げ、笑みを模った顔には、力がない。
依子はただ、静かに彼女の言葉に耳を傾けていた。
「それでも」
キュッと唇を引き締めて、一拍の間を取って。
「ほんとのことだって、わかった。聞いてただけだけど」
ひとつ、息をこぼすと、藍はしっかりと言葉を紡いだ。
その様子が、どこか淋しげに見えるのは、彼の想いの先を知っている自分の希望論なのだろうかと、依子は自分に問いかけた。
彼女は知っている。
藍の味方でいようと決めたのにも関わらず、自分がどのような結末を望んでいるのかを。
「……わたしね」
両手を後ろにつき、簡素な天井を仰げば視界に入ってくるのはむき出しの鉄筋。
「佐久間に甘えてた。佐久間が何も言わないからって、縋ってた。それは、依子に対してもそうだと思ってるけど」
「藍」
「……それじゃ、いけないんだよ」
「藍……」
藍の顔が、依子の目に映る。
酷く綺麗なのに、酷く色の無い、表情。
いつもの、微笑み。
それが、感情を押し込める蓋であることを、彼女は知っている。
いつもの、癖。
それが、人前で見せる密やかな涙であることを、彼女は知っている。
そして。
裕哉のあの表情が、依子の脳裏をよぎる。
細められた、目。
それが、鋭く細められた訳ではないことを、彼女は知っている。
緩んだ、口元。
それが、日頃厳しく自制されている感情の切れ端であることを、彼女は知っている。
けれど。
彼女は、知っている。
知っていたところで、どうしようもできないのだと、いうことを。
依子は、大きく息を吐き出した。
ゆっくりと、藍にむかって手を伸ばす。
「? より」
ペシっと、藍の額を乾いた音が通り過ぎた。
依子の手のひらが、軽くはたいていったのだ。
「アンタね、ナメてるでしょ?」
「……へ?」
依子の言葉の意味がわからず、藍は情けない声を出して疑問符を浮かべる。
「甘えちゃいけない? 相っ変わらず面倒なんだからアンタは! いーい? 生憎あたしは、アンタに甘えられたくらいでヘバるようなヤワな女じゃないのよ。佐久間もそう! むしろヘタに背負い込んで話さないほうがコッチもしんどいっつの。そこんとこ好い加減わかりなさいよねこの馬鹿!!」
息もつかせぬ勢いで一気に捲くし立てる依子に、藍は完全に気おされ、ただただ彼女を眺めるのみ。
そんな藍の様子を見て、依子はまたもため息をつき、ふっと肩の力を落とすと、先程額をはたいた右手の人差し指で、藍の頬を軽くつついた。
「……少しは頼りなさいよ。あたし達の仲でしょうが」
「……うん。ゴメン」
呟かれた依子の言葉に、藍は素直に頷いた。
けれど、表情は尚も変わらない。

見届けることしか、できなくても。
せめて、一時でも、笑えるように。

藍の、そして裕哉の行き着く先に思いを馳せて、依子は静かに目を伏せた。






薄暗い視界の中、制服ですれ違う他の生徒になど目もくれず、真樹は体育館から部室棟へと続く道を走っていた。
あの後。
裕哉の表情を目にした真樹は、感情に任せて言葉をぶつけた自分自身をひどく後悔した。
投げつけられた言葉を噛み締めながら、何も言わないでいる裕哉に、彼女は逃げるようにその場を立ち去ることしかできなかった。


傷つけたかった訳では、ない。


口元を引き締めるだけでは足らず、下唇の口内の肉を強く噛み締める。


ただ、その位置に留まっていることが、どうしても許せなかった。


帰り際の賑やかさが、ただのノイズとなって耳から彼女の頭をかき混ぜる。
足を緩めることなく壁続きの角を曲がった、その時。
「うお!」
「!!」
陸上用のトラックが見える筈の真樹の視界は、黒くぼやけたもので埋まり、直後硬い衝撃と共に後ろへと飛ばされた。
そのまま後ろに倒れるのを覚悟し、真樹が痛みに耐えようと目を瞑った瞬間。
大きな手が、彼女の右手首を引っ張った。
アスファルトに叩きつけられたペンケースは、とがった音を鳴らし、マーカーやペンがあちこちへ散らばった。
「ワリ、へーきか!?」
手首が解放され、それと同時に上のほうから落とされた聞き覚えのある声に、そろりと目を開ければ、そこには練習着姿の巧の姿が。
「……あ、大丈夫です。スミマセン」
そっと視線をずらし、小さく答える真樹。
「ほんっと悪ィ。ケガないか?」
「大丈夫ですから」
か細い声で答える彼女を遠慮していると思ったのか、その表情を覗き込もうとする巧。
真樹は、しゃがみこみ、散乱した筆記具を拾い始めることで、それとなくやり過ごす。
「菅原?」
怪訝そうな、巧の声。
それに気づきながらも、真樹は顔をあげずにただ声だけを返した。
「……なんですか?」
「……や。なんでも」
彼女の様子から聞かれたくないという意思表示を感じ取った巧は、それ以上何も聞かずに, 一緒になって散らばった筆記具を拾い始めた。
「やー盛大にやっちゃったなーコレ」
「……スミマセン。前、見てなくて」
「や、コレはアレだろ、ケンカ両成敗ってヤツ? 避けられなかったオレも同罪」
軽くそう言い放つと、彼はざっとあたりを見回す。
「自分でやりますから、先輩は練習に戻ってください」
「いやいや、ここで『じゃぁヨロシク』って行っちゃったら紳士じゃないでしょ〜」
「でも……」
「一人より二人のが早いしな。……それで全部?」
部活用のノートの上に置かれたペンケースと、その中に乱雑に詰め込まれた筆記具を確認する真樹。
「はい、……ありがとうござ」
「これは?」
遮るように言い渡された彼の言葉に、真樹が視線を上げると、そこには。
はためく、青のタオル。
そこで、彼女は初めて、自分が勢い余って裕哉のタオルをそのまま持ってきてしまったことに気づいた。
「コレ、佐久間の?」
「……ハイ」
それ以上、言葉を紡げずに押し黙る真樹。
二人の間を流れた沈黙は、けれどわずかな間でしかなかった。
「ん〜そうだな。
@オレに一発喰らわして奪い返す
A話し合いによる平和的解決
Bオレが返しとく
……どれにする?」
ゆっくりと立ち上がり、変わらない口調のまま、ふざけた問いかけをしてくる巧。
しかし、真樹はそんな彼の様子に、静かに微笑を返した。
巧が、どういう人間か。彼女も少しは知っている。
「あ、もしかしてCその他、必要だった?」
「……いいえ。Bで、お願いできますか?」
その場に立ち、顔を上げて巧の顔をしっかりと見つめながら、答える真樹。
「りょーかい。任せとけ」
巧は、ニッと笑顔を浮かべ、そのまま真樹の頭に手のひらを置くように軽く叩くと、体育館のほうへと歩いていった。
真樹は振り向き、遠ざかっていく背中に声をかけた。
「ありがとう、ございます」
少し掠れた、言葉。
けれど巧は、ひらりとタオルを掴んだ手を振って返した。






キュ、と音をたてて水道の蛇口が閉められる。
屈めていた上半身を起こせば、首筋からシャツの内側へと水滴が伝う。
そこへ来て、裕哉はタオルがないことに気がついた。
どこに、と思ったところで先程の出来事に思い当たる。
眉間の皺を増やした彼は、ぐいっと襟元を手繰り寄せて顔を拭った。
「オイ、そこのデカいの」
突如、声と共に繰り出された蹴りによって、軽くよろめく裕哉。
「テメェ……なんのつもりだ早瀬」
裕哉は、当然のことながら、不機嫌さを隠そうともせずそちらを睨み付ける。
対して巧はと言えば、わざとらしく長いため息をつきながら、無言で右手を彼へと突き出した。
その手には、勿論あのタオルが。
「!」
「自然乾燥にはちょーっと早いんじゃねーの?」
目を見開く裕哉に、嫌味ったらしい口調で問いかける巧。
裕哉は、憮然とした表情で彼の手からタオルをひったくった。
その行動までも予想していたのか、巧は気分を害した様子もなく、むしろ薄く笑んだまま、更に口を開いた。
「とりあえず、泣いてはなかったよ」
誰が、と言わないのは、彼なりの配慮だろうか。
「……」
「ま、部外者だし、口出しはしませんが。とりあえず報告」
「……悪かったな」
静かに、それでもしっかりと礼を言う彼に、巧はひょいっと肩をすくめた。
「ま、チャラってことで」
「?」
「高須賀に目撃されたらしーじゃん? 告白シーン」
ニヤリと口元を歪める巧に、裕哉は小さくため息をつく。
「……それがどうした」
「オレもアイツにお前の居場所聞かれたクチだからサ。多少は責任感じてるワケ」
「覗きの常習者がよく言う」
タオルを頭にひっかけ、髪を拭きながら容赦なく言い放つ彼。
「ひでーなオイ。まぁ否定はしないけど」
「できない、の間違いだろ」
「はいはいはい、そーですよ。
にしても、相手が悪かったってゆーかなんてゆーか。かなりテンパってたぞ。
ま、コッチとしては面白かったけど」
ククク、と思い出し笑いをする巧を目の端でとらえながら、裏庭での彼女の様子が裕哉の頭をよぎった。
「わかりやすいしなー、高須賀は」
何とはなしに吐き出されたその言葉に、裕哉はタオルを動かす手を止めた。

藍は、確かにくるくると表情が変わる。
けれど、隠し事が出来ないような、そんなタイプでは決してない。
現に、彼女はもうずっと、ひとつの感情をひた隠しにしてきている。
それに気づいているのは、それこそほんの一握りしかいない。
彼女の微妙な変化を見て取れる人間しか、気づいていないのだ。
裕哉は、ちりちりと、胸の奥で何かが燻るような感覚を感じた。


そんなことを気づくのならば、何故。
何故、彼女の想いに気付かないのか。


しかし。
一瞬。
形にならない答えが、彼の脳裏を掠めた。
脳裏にこだまする、依子のいつにない声。


『早瀬は、………………………………』


「佐久間サマ〜?」
目の前で小刻みに揺れる肌色に、裕哉は我に返る。
「なーにやってんだ、お前?」
「いや……」
曖昧に言葉を濁す彼に、巧はちらりと訝しげな視線を向けたが、すぐについっと逸らした。
「早瀬、お前……」
「あーやっべ、そろそろ門閉まるんじゃね? さっさと部室行こーぜ」
体育教官室の照明が消されたのを見た巧は、そう言うとすぐに踵を返して部室棟へと歩き始めた。
その背中をしばらく見つめた後、断ち切るようにため息をこぼした裕哉も、彼に従い足を進めた。






耳に、響くのは。
葉のさざめきにも似た、心の、音。





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06.04.16


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