目を逸らし続けていれば。
変わりはしないと、そう思っていた。





11 . 空蝉




佐久間裕哉のレギュラー落ち。
その噂は半日と経たずに学校中に広まっていた。
心配、同情、好奇心。
様々な視線を向けられても尚、裕哉は何も語らず、揺らがずに平然と普段どおり過ごしていた。
それが、この騒ぎを手っ取り早く収める最も有効な方法だとわかっているのだろう。
その髪型から「ザビエル」という容赦のないあだ名をつけられた教師の流暢な英語を半ば聞き流しながら、依子は視界の片隅に入る裕哉の後ろ姿を見つめた。
この調子だと、噂は藍の耳にも当然入っているだろう。
三時間目である現在まで、休み時間の度にうざったい野次馬が依子から情報を引き出そうと群がってきたが、肝心の藍はまだ姿を見せていなかった。
だがそれは、藍が野次馬根性のない良識ある生徒だから、というわけではない。
むしろ、藍の性格を考えればこの時間まで訪れないのは不自然だった。
まず間違いなく、こんな話を聞けばすっ飛んで来る。もちろんそれは野次馬根性ではなく、純粋に心配して。それが依子の知る高須賀藍だ。
ならばなぜ、彼女は来ないのか。
はぁ……
依子は知らず溜息をついていた。
「行くか」
教師の耳に聞こえない程度に、依子は呟いた。
箱庭の外にいたつもりが、どうやら自分もすっかり箱庭の住人になっているようだ、と依子は視線を外へ逃がした。
「……いやな空」
灰色の雲が、空を埋めつくしていた。





終業のチャイムが鳴ると同時に、巧はバッグを片手に席を立っていた。
さすがの巧も、休み時間の度に質問攻めでは不機嫌にもなるというものである。
昼休みまで邪魔されるのはたまったもんじゃない。逃げるが勝ちだ。
かと言って、いつものように部室へ行くのも躊躇われた。
わざととはいえ、朝練の場で微妙なしこりを残したままなのだ。
野次馬から逃れても、より粘着質な三門や大原にチクチクと遠回しに責められるのは正直ごめんこうむりたかった。
しばしの逡巡の後、巧はいつもとルートを変えて屋上へとむかった。
基本的に立ち入り禁止の場所ではあるが、そこはそれ、蛇の道はなんとやら、である。
あまり知られてはいないが、鍵が壊れて扉の歪みだけがストッパーになっている屋上事情を、彼は知っていた。
この天気であれば、先客もそうそういないはず。
だがその考えは、見覚えのある後ろ姿によって否定された。
「こら!! そこの女子!! こんなところで何をしてる!!」
「っ!!」
突然の怒声にびくりと体を跳ね上げ、慌てて振り返る女子生徒。
その姿に、巧はにやりと嫌らしい笑みを浮かべた。
「……って、早瀬先輩」
「ビビった?」
「悪趣味ですよ。先輩じゃなければひっぱたいてるところです」
「はは! さすが菅原! 高城の後釜決定だな」
不機嫌な様子を隠そうともせず口をとがらせる真樹に、巧はニヒヒと笑みを深めた。
「にしても、菅原がまさか屋上の客人とはな〜。意外意外。隣、いい?」
「どうぞ。……早瀬先輩は常連さんみたいですね。三門先輩が言ってましたよ」
「ハハハ。アイツらもだけどなー。あれ、菅原ここで昼食ってたの?」
「……ええ」
だが、広げられたお弁当は一向に減ってはいなかった。
巧はひょいとそれを覗きこみ、だが何も言わずにコロッケパンの袋を開いてかぶりついた。
「あ、これ菅原にあげるなー」
そう言うと、巧はおもむろにポケットから白い包み紙を取り出し、隣の真樹へと放り投げた。
「え?」
「うまいよー。イチゴアメ」
「……ありがとうございます。意外ですね、早瀬先輩がこんなの持ってるなんて」
「あー、貰いもんだからなー」
「女子ですか」
「そ。彼女がさ、好きなんだよ。このアメ」
ころり、と手の中でアメを転がして、真樹は巧を見つめた。
「青葉の片桐さん、風邪はよくなったんですか?」
「あ? あーおかげさまで」
そう言ってビニール袋から取り出されたのは、ピンクのパックが眩しいイチゴミルク。
「……彼女さんが、好きなんですよね? イチゴアメ」
「ま、いいじゃないの。おいしければ」
さして気にした風もなく音をたてて飲む姿に、真樹はくすりと小さな笑みをこぼした。
それを見て、巧もふっと表情を緩める。
「よしよし」
「? なんですか?」
「や、別に〜。やっぱメシは楽しく食べないとなー」
何気ない言葉にさりげない気遣いを感じ、真樹はふっと表情を緩めた。
「早瀬先輩」
「うん?」
「ひとつ、聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
カサリ、と指先でイチゴアメをいじりながら、真樹がゆっくりと口を開いた。
「彼女さんに別れたいって言われたら、どうしますか?」
中身がなくなったのか、巧の手の中でピンクのパックが音をたててへこんだ。
「どストレートだな〜菅原は」
「すみません」
「や、遠慮がちよかそっちのほうがいーけどさ」
空のパックを脇において、巧はくるりと上を向いた。
「別れるかもね」
「……なんでですか?」
「だって、別れたいって言われたらね〜?」
へらり、と笑う巧の様子に真樹はムッとした表情を隠そうともしなかった。
「そんな簡単に諦められるんですか!?」
「諦めるとは言ってないよ」
視線を空から真樹に戻した巧は、あっけらかんと言い放った。
「だって」
「別れるには別れるよ。相手が離れたいと思ってんのを無理矢理縛り付けるワケにはいかないだろーし。でも、オレがどうするかは別」
さも当然のように言ってのける巧の姿を、真樹はぽかんとした表情で見つめていた。



「好きなら、また片思いからやりゃーいーだけじゃない?」



首を傾げて問いかけてくるその言葉は、ひとつひとつ、真樹の胸に染みていった。
気がつけば、灰色の空から二人の傍に一筋の光が射し込んでいた。
「お、晴れてきたなー」
「……早瀬先輩」
「ん?」
「ありがとうございます」
「……思うようにやればいいんだよ。変に頭使うんじゃなくてさ」
巧はにんまり笑うと、隣にある真樹の頭をわしわしと雑にかき混ぜた。
「ちょ、先輩!」
「菅原はカワイーなー」
「その発言、オヤジ臭いです」
「うっわ、ひっでーの」
二人の間に流れる和やかな空気に、巧はひっそりと目もとを緩めた。

「お、誰もいねーじゃん」
「だーから言ったべ? 今日天気悪ぃーから穴場だって」
がちゃり、という鈍い音と共に聞こえてきたいくつかの声。
ぞろぞろと入ってきた学ラン姿。中ばきの赤いラインを見た巧は、ぽつりと呟いた。
「一年か」
「隣のクラスですね。何人かバスケ部もいます」
「あぁ、どうりでなんとなく見たことある顔だ」
入ってすぐ左に曲った給水塔のそばにいる巧と真樹には気づいていないらしい。
二人はすぐに興味を失くしたが、一年連中の誰はばかることない大声のせいで、聞きたくなくとも耳に入ってしまった。
「にしても聞いたか? バレー部の話」
「あぁ、あの人だろ、佐久間先輩」
「何してんだかなー。バレー部レギュラーっつったら全国区じゃん。もったいねー」
大した意味もない、噂話。誰だって、自分だってするような些細な話。
それでも、真樹はぐつぐつと自分の感情が煮えたぎるのを感じていた。
だが、更に続いた言葉に真樹は言葉を失った。
「あれ、絶対菅原絡んでるぜ」
「は、何それ? なんで菅原?」
「確かマネだっけ?」
「噂になってんじゃん! 聞いてねーのかよお前ら」
「噂?」
真樹の位置から顔は見えなかったが、その声から、話の中心にいるのがバスケ部の男子であることはわかった。



「キスしてたんだってよ。その佐久間さんと」



真樹は、巧の視線を感じていたが、体が動かず何も言えなかった。
「は!? マジで?」
「しかも、濃いいやつ!」
「うっわーちょっとショック〜〜〜。俺結構タイプだったのにー」
「しかもレギュラー落ち言い渡された直後だぜ? 余裕ありすぎー」
「なるほどー。じゃあ練習試合フケたってのも、二人で会ってたワケか」
「いや〜ん、何やってたのよー」
「何って、ナニ?」
「ぎゃはははは! 昼から下ネタかよ!」
思考がぐるぐるして、すぐ傍にある筈のいくつもの声が彼女の耳から遠ざかる。
ふと、自分に差した影に気づいて真樹が顔をあげた先には。
珍しく顔をしかめた巧が、ゆらりと立ちあがっていた。
『一番キレたらやばいのは、案外早瀬でしょーね』
唐突に、依子の台詞が耳の奥に蘇る。
あれはいつだったか。合宿の夜、マネ部屋での依子の言葉だった。
普段の柔和は態度は猫をかぶっているのだと。確かそんな話で。
まずい、と我に返った真樹が止めようと手を伸ばすが、その手はあとちょっとのところで空を掴んだ。



「おい、てめぇら」



その声は、部活で接している真樹ですら聞いたことのない、地を這うような声だった。
後を追えば、噂をしていた男たちが慌てふためいている姿が目に入った。



「デマばっか話してんじゃねーよ」



その迫力に押され、彼らはバタバタと大きな音をたてて逃げるよう走り去った。
だが、巧の怒りがまだ納まっていないのは、後ろ姿だけでもはっきりと見て取れた。
「あの、」
「バカの言うことは気にすんな」
吐き捨てるように投げかけられた言葉は、それでも真樹を気遣っていた。
だからこそ、真樹は耐えられなかった。
「違うんです!」
甲高い声が、あたりをつんざく。
その声色に滲む必死さを感じ、巧がゆっくりと振り向いた。
「違うんです……」
「菅原……?」
皺ができることなど考えもせずに、真樹はきつくスカートを握りしめた。
二人がいた場所に、白い包みのイチゴアメが、ぽつりと転がっていた。





バァンッ
人の少ない体育館に、白いボールが跳ね上がる。
次の時間は体育ではなかったが、構わず裕哉は白球を打っていた。
広まった噂も、好奇の目も、さして気にしてはいなかった。
感想があるとすれば、みんな意外に暇なんだなとか、その程度だ。
チームメイトに悪いという気持ちはもちろんあるが、それは既に伝えている。
あとはただ、プレーで見せるしかないのだ。
謝罪も。信頼も。バレーへの想いも。
「おら! 佐久間ぁー!!」
容赦なく顔面目指して飛んで来るボールとその怒鳴り声に、裕哉は我に返った。
難なく両手で受け止めて、犯人にむかって呆れた声を漏らす。
「あぶねーよ、永田」
「バーカ、呆けてんじゃねぇよ!」
「そうそ。付き合ってやってるコッチのことも考えてよね〜」
「素直じゃねーの」
「ハハハ、おい高城、葛西が反旗を翻したぞ」
「おい大原! チクんな!」
「あはは〜葛西ちゃん墓穴〜」
「だぁ! 外野うるせー!! 佐久間、次行くぞ!」
ひょい、と返事の代わりに腕をあげ、裕哉は構えた。
一人でしようと思っていた練習は、まず依子に見つかり、永田にチクられ、葛西が付き合い、三門と大原がしごいてやれと悪ノリし、気がつけばいつものメンバーが集まっていた。
「感謝しなさいよね」と軽くパンチをしながらにやりと意地悪い笑みを浮かべていた依子に、珍しく内心で賛同したのは、誰にも言えない秘密だ。



「あれ、早瀬じゃね?」



葛西の声につられて体育館の入口に視線をやると、そこには息を切らした巧が立っていた。
館内をぐるりと見渡していた彼の目が、ひたりと一点で止まる。
かと思うと、そのままずんずんと一直線で近づいてくる。
「なんだーアイツ?」
「何かあったのか? ずいぶんと不穏なオーラをまき散らしてるが」
永田も大原も、その雰囲気の違いをかぎ分けていた。
「おい、早瀬」
同じ空気を察したのか、葛西が巧に歩み寄るが、巧はそれを無言のまま片手で払いのけた。
「早瀬!」
コートを横切り、ネットの下をくぐって、彼はようやくその歩を止めた。
そう、裕哉の前で。
「何だ?」
「……お前、どういうつもりだ」
聞こえてきたのは、絞り出されたかのように掠れた低い声だった。
「何がだよ?」
「菅原とキスしたって、バカが噂してんだよ」
「!」

『そんなに、あの人のことが好きなの?』
『自分の気持ちよりも?』
『あたしの気持ち知ってて、それでも……っ!!』

まざまざと蘇る、切なげな声。
気付かないはずがなかった。
誰よりも近くにいた、ひとつ年下の幼馴染。
傷つけたくなかった。卑怯かもしれないとわかっていたが、気づかないふりをするのが最善だと思っていた。
ぐっと、掌を固く握りしめ、裕哉は思考を打ち切った。
「お前には関係ねぇだろ」
ドガァッ
次の瞬間、裕哉は体育館の床に体をうちつけていた。
二人の名を呼ぶ声があちこちであがる。
頬がびりびりと痺れ、口の中に鉄の味が広がっていくのを、裕哉はどこか他人事のように感じていた。
だが間を置かず、巧に胸倉を掴み上げられ、無理矢理半身を起こされた。



「あいつらの気持ち、少しは考えろよ……っ!!」



地を這うような、低い声。
二人にしか聞こえないように絞り出されたそれが、誰のことを指しているのか。
そう考えて、頭にカッと血が上った。
ガツッ
「テメェこそどうなんだよっ!」
気がつけば、相手を殴り飛ばして馬乗りになっていた。
誰もいない教室。
小刻みに震える、ほっそりとした肩。
赤く染まった目元そのままで、ふわりと浮かべた微笑み。
「あいつが……っ!!」





背を駆け上る想いは、あの日のまま。
底で低く唸る想いは、押し込めたまま。







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09.10.12


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