漆 それからみるみる、清一郎は回復してった。 さすがにね、白髪や何やら、はい簡単に元通り、という具合にゃあいかなかったが、痩けた顔やら身体には、徐々に肉もついてきてたし、しゃがれた声も、低くはなったが本来持ってた声音になった。 相も変わらず臥せりがちだが、気分がいい日は進んで座椅子に腰掛けてたし、屋敷の中を歩きもしたよ。たまにぼんやりしてはいたがね。 前に比べりゃ屁でもない。かの先生も驚くほどの、異様な回復ぶりだった。 ただひとつ、気がかりなこともなくはなかった。 清一郎の、心のほうさ。 もちろん意識ははっきりしてたよ。自分が誰かもわかっていたし、洋二郎もわかってた。 亡き両親のことに始まり、幼い頃、洋二郎が悪戯をして納屋に閉じ込められてたことや、親しくしてる町の八百屋の旦那が起こした痴話喧嘩まで、そりゃあもう、些細なことまで覚えてやがった。 もちろん、紫苑のことさえも、ね。 洋二郎は窺うように、そぉっとその名を紡いだよ。 清一郎は落ち着いてるし、自分を取り戻してもいる。だからといって、紫苑の名前を耳にして大丈夫という証拠にゃならない。 どれだけ紫苑を求めていたか。 どれだけ紫暗に狂わされたか。 洋二郎は、当の清一郎よりも、骨身に染みて知ってたからね。警戒するのも当然だろう。 けれどもそれは、杞憂に終わった。 清一郎は、湖水のような眼をしたままで、わずかに笑っただけだったのさ。 薄くやんわり辺りを隠す、朝の白立つ霞のような。 そんな微笑を浮かべてね。 そしてぽつりと呟いたのさ。 「人形に、溺れたか」 自嘲に満ちたその囁きに、洋二郎はやつれたその手を握り締めたよ。 自分が恋し求めた女が、自分の作った人形だった。 それを認めた清一郎がどんな想いを抱えていたか。 その心中は、洋二郎にもわかりゃしないよ。 ただ、淋しそうに目元を細める清一郎を見てたらね。どっかに行っちまうんじゃないかって、そう思えたと言うんだよ。 だからこそ、洋二郎は手をとった。清一郎を、その場に繋ぎ止めるようにね。 洋二郎のほうからすれば、紫苑が人形だということを兄が認識できたのは、喜び勇むことだった。 だってそうだろ? あの日の男は紫苑を妻だと、人形ではなく人だと言った。 紫苑は確かにおぞましいほど人間らしくなってたが、清一郎自身がさ、あれは自分の人形だったと、そう理解できたんならば、あの日のようなことにはならぬと、そう、思っていたんだろうよ。 物に魅入られ心を失くした清一郎の姿をね、毎日毎日見てたんだ。兄の心を推してはいても、嬉しく思ってしまうだろうよ。 おなじくね。洋二郎がどれほど心を砕いていたか。清一郎とて気づいてた。 元々ね、その感情を顔や仕草に出しちまうのがこの弟の洋二郎さ。 治ってきても、暇を作ればこまめに寝所に顔を出したし、興味を見せぬと知っているのに、外の季節を匂わす物をちょいと出かけりゃ買ってきた。 町で流行った唄かなんかを仕入れて披露したりもしたし、お得意様の見舞いの菓子を勝手に食ったと謝りもした。 まるで何にもなかったように。 何も変わってないかのように。 洋二郎は、要らぬ心配をかけぬよう、いつものようにしてたんだろう。 だけどねぇ、清一郎は曲がりなりにも洋二郎の兄貴だよ。 二十年、一緒に暮らした弟のちょっと気張った演技なんぞに、本気で気づかぬわけがない。 洋二郎が明るく普通に振る舞うほどに、清一郎はその反対の、澱んだ気配を嗅ぎ取ってたに違いない。 明るく話しかけてはくるが、切れ長だった一重目蓋はぼってり見事に腫れていた。 あれからね、洋二郎は夜も寝付けず、ときたま寝れてもうつらうつらで、とことん眠りが浅かったんだよ。 そこに噂と看病だ。重ね重ねの疲れがね、てっとり早く目に出たんだろう。 しかも癖でもついたのか、なかなかひきやしなかったのさ。 それだけじゃない。自分を見つめるその目がね。時折ぐらぐら揺らぐのを、清一郎は知ってた筈さ。 墨の色したその両の目は、ふとした瞬間、滴が波紋を生み出すように怖れの色を覗かせた。 詳しい話は洋二郎が隠したからね。清一郎とて知らないだろう。 でもその態度や様子から、紫苑の影が、洋二郎にも色濃く跡を残してたのを、感じ取ってはいたんだろうよ。 「すまないな」 清一郎は、時折そう言い、白髪頭を垂れてたらしい。 洋二郎は、ただただ首を振ってたそうさ。 謝られる謂われはない、と。清一郎のせいではない、と。そう思っていたんだろうね。 清一郎は知らなかったが、洋二郎の腕は変わらず、人形作りを拒否してた。 恐らく一生このままだろうと、洋二郎も受け入れてたよ。 だがそれさえも、洋二郎は恨んでなかった。 清一郎の心の代わりに、紫苑にくれてやったのだ。それで返って来れたのならば、己が人形師の生き様も、この手も誉れというものだ、と、そう考えていたんだよ。 簡単ではなかっただろう。そう思っても納得できるもんじゃない。 お前さんとて、その右手から絵を描く術を奪われたらさ、自暴自棄にもなるだろう? それでもね。洋二郎は諦めた。 諦めようと努力をしてた。 細った手首はどこまでも、目には映らぬ朱の細帯に絡めとられていたのにね。 |