捌 その夜も、冴え冴えしていた空気も手伝い、洋二郎は目覚めちまった。 とは言え最早慣れたもの。 寝返りうったり書物を読んだり空虚な時間を使っていたよ。 いつもなら、そうしてやり過ごしてたんだがね。 その日はどうにも胸がざわめき、遂に寝床を抜け出した。 ちょっと熱燗でもこしらえて、暖を取ろうとしたんだろうさ。 お勝手まではすぐだがね、そこに行くには清一郎の寝所の前を通らにゃならん。 だいぶ治って、今じゃ近くを散歩したりもしているが、ここ暫くはどうしたものか、土気色した顔してた。 しかもこの時夜更けも夜更け、草木も眠る丑三つ時だ。 そんな時間に起こしちまうのはいくらなんでも気が引ける。 覆いをひっかけ行灯の火を極力殺し、そっと忍んで行ったのさ。 ところがだ。廊下に出て見て、洋二郎は気がついた。 ちりちりと、鼻を掠めるきな臭さにね。 秋半ば、屋敷の周りの草木は枯れて空気は乾燥していたし、ここは峠だ。 町の火消しもそうそう早くはやってや来ない。 ちょっとの火だって油断はできない場所だったのさ。 だからこそ、日頃から、火の扱いは充分気をつけてたんだが。 そのきな臭さはどう考えても、何かが燃えてる臭いだった。 まさか小火か、と慌てて火元を洗ったよ。 お勝手、仏壇、寝所をあたり、清一郎の寝所に来てね。洋二郎は気がついた。 自分が出た時確かに閉めた、清一郎の寝所の戸がね。 うっすら開いていることに。 礼儀も何もかなぐり捨てて、洋二郎はその戸を開けた。 するとどうだい、部屋にゃあ灯りも何もなく、白い蒲団はもぬけの殻さ。 洋二郎は弾けるように、脱兎の如く駆け出してたよ。 あれから避けてた道のりも、この際意識にありゃしなかった。 だけどさすがに、嫌な思い出ばかりが巡る。 ここ暫くの事を思えば、それも仕方がないだろう。 洋二郎は随分急いて息してた。 底に棲まった影がこの時、洋二郎を覆ってたのさ。 その時何を思っていたか、さすがにあんたもわかるだろう? 何度も怖れた紫暗の影が、頭をもたげていたんだよ。 離れはすでに、黒い煙をもう幾筋も空へと高く上らせてたよ。 舞い散る煤と臭いのせいで、洋二郎の目尻には知らずに涙が浮かんでた。 このままほっときゃ小火どころの話じゃないが、洋二郎にはそれさえも、頭に入っちゃいなかったのさ。 洋二郎は水も被らず寝着一枚で、離れの中に踏み込んだ。 火元も何も、行くべき場所はたったひとつさ。 唸る炎が梁を巻き、ばらばら滓が飛んできたって、洋二郎には躊躇う時間もありゃしなかった。 涙を溜めて咽んでも、絶対止まりはしなかったのさ。 満ちる熱気にあてられたのか。 洋二郎は、離れの廊下を進むたび、記憶の中の廊下を歩いているような、そんな感じを覚えてた。 最初に見たのは、紫苑をこさえ精魂尽きた清一郎。 次に見たのは、紫苑に溺れ狂気を湛えた清一郎。 なら、三度目は? ぼやける頭を振り払い、見据えた先の障子戸は、記憶そのまま無残に大穴空けていた。 違うのは、火が飛び移り赤く染まっていたことと。 火に囲まれて背中を向けた、黒い人影それだけだった。 ごうごうと荒ぶ炎を掻き消すように、洋二郎は清一郎の名を呼んだ。 煙に焼かれ痛んだ喉はじくじく熱を持ってたけどね、それでも大声張り上げてたよ。 裂けても構わなかったんだろう。 清一郎に届くのならば、洋二郎はね、腕でも声でも喜んで、炎の中に差し出したろう。 何度も何度も何度もさ。 呼び戻すように、叫んでた。 単にこの部屋からだけじゃない。 この呪縛から、紫暗の玉から、紫苑という名の人形からね。 清一郎を呼び戻そうと、そんな想いもそうきっと、奴にはあったに違いない。 叫びすぎて、煙を吸ってぐらりと身体が傾いでも。 洋二郎は諦めることはなかったよ。 声は届いてなかっただろう。 だが、それでもね。 清一郎は、洋二郎へと振り向いたんだ。 清一郎は、わかってたのさ。洋二郎が来ることを。 清一郎は笑っていたよ。 困ったように眉は垂れてはいたものの、口の端をそっと吊り上げ、綺麗な微笑を浮かべてた。 温度差で揺らいだ景色のむこうだったが、洋二郎にもそれはしっかり見えてたよ。 それはそう、紫暗の玉も紫苑にすらも、見せたことない淡くて白い微笑みだったに違いない。 洋二郎はすぐさま叫んだ。 まだ間に合うと。一緒に出ようと。 清一郎がここにいるのも、火を点け離れを燃やしたことも。 すべてはね、清一郎の意志だった。 そんなもん、洋二郎とてわかっていたよ。その顔見れば、すぐにわかった。 炎の中に身を落として尚、清一郎はあの日と違い、己をその眼に持ってたよ。 狂っちゃいない。 溺れちゃいない。 紫苑のことを人形だったと認めたその日の眼のままに、清一郎は自ら離れに火をくべたのさ。 恐らくそこにいたのはね。人形師たる吉浜清一郎じゃあなかった。 そこにいたのは、ただの男さ。 相手が木彫りとわかっていても、恋焦がれずにはいられない、恋に一途なただの男が、そこにいたのさ。 だからとて。 だからと言って。 どうしてそのまま清一郎の望みのままにできるんだい? 膝をつき、背を仰け反らせ、掠れて音が割れちまっても。 洋二郎は、手を伸ばしたよ。 「あんたはずるい。 いつでもどこでも人形ばかりであんたは何もしないじゃないか。 自分の人形どれだけこさえてみたとこで、あんたのもんには敵いやしない。 どれだけあんたを呪い疎んじ死ねばいいと罵ってたか、そんなのあんたにわかるまい。 そんな自分に吐き気もしたよ。 出口もないままどうにかやってたってのに、あんた何した? 終いにゃ自分の人形に、魂までも奪われやがった! 自分でこさえた人形にだよ。気違い以外の何でもない。 そんなあんたを助けてやったこっちのことも考えやがれ。 狂っちまったあんたのせいで、悔いや罪悪感を抱えて、どんな想いをしてきたか、あんたは何にもわからないんだ。 いやわかろうとしないんだ。 あんたの頭にいつもあるのは、そう人形のことだけさ。 人間なんか、弟なんざ、どうでもよかった、そうなんだろう。 図面も書けず人形作りもできなくなって、それでもあんたが戻ったなら、それでいいと思ってたのに……」 「この上自分の我儘で、おれから兄まで奪ってくのか!」 「答えろ、清一郎っ!!」 腹ン中を曝けて見せた、一番奥の言葉がね。 炎の中を劈いて、清一郎へと届いていたよ。 汚かろうが何だろうが、そんなの構いやしなかった。 清一郎が、家族も生も投げ捨てて己の我儘貫き通し、紫苑を求めているのなら。 洋二郎も、兄のためでも何でもなく、己の心の叫ぶがままにぶつかる以外ありゃしなかった。 上辺ばかりの祈りなんかじゃ、到底足りやしなかったのさ。 これを聞いた清一郎が、どう思ったかはわからない。 だがその後に、清一郎はゆうるりと、その口唇を開いて見せた。 す ま な 最後の一字は、焼け落ちてきた柱に阻まれ見ることさえも叶わなかったよ。 それでもね。 いつかも聞いたその言葉はね、洋二郎の耳の奥、確かに音をなしていたのさ。 清一郎の死に様は、すぐさま町に広まった。 当代きっての人形師の人形相手の相対死は、色々と背鰭尾鰭をくっつけてしばらく町を賑わしてたよ。 皮肉なことに、その話がまた輪をかけて、人形師・吉浜清一郎の名を広めることにもなったのさ。 だがしかし。 ほんとのところはちょいと違った。 清一郎が死んだのは、もっと深い願いがあってのことだったのさ。 焼け落ちちまった作業場からはね、清一郎の遺体の他に、二体の大きな人形が折り重なって見つかったんだよ。 おかしいだろう? 紫苑と共に死ぬだけならば、どうして二人じゃない? しかも紫苑はどうしたことか、もう一体の人形にすっぽり身体を包まれてたのさ。 片腕を、腰に回され、もう片方は手を握り合い、額を胸に埋めてね。 誰が見たって男と女の抱擁以外の何でもない。 洋二郎とてこればっかりは小首を傾げてしまったよ。 これはどういうことだろう、とね。 その答えをそっと教えてくれたのは、しばらく後に見つかった、朱色の煤けた布切れだった。 しっかり組まれた手のあたりでね、その布切れは見つかった。 よくよく見れば似た切れ端は、いくつもいくつも、そのあたりに埋もれてた。 そのほとんどが黒く煤けたものだったがね、ひとつだけ、朱色を残していたんだよ。 その色は、扇子の細工をよく引き立てた、紫苑の細帯だったのさ。 握り締めてた手のすぐ傍に、朱色の細帯。 お前さん、どういうことかわかるかい? それはそう、この二体の人形が、その細帯で手首を結んでいたってことさ。 清一郎は、わかってたのさ。 人間と人形は、決して結ばれないんだと。 だから選んじまったのさ。残る最後の方法を。 人形が、人になるか。 人が、人形になるかをね。 だからこそ、清一郎は死んだのさ。 紫苑が人になれない以上、道はひとつしかなかったからね。 「大馬鹿野郎」と何度も何度もそう呟いて、洋二郎はその切れ端を、ずぅっと大事に持ってたよ。 洋二郎は、気づいちまった。 清一郎とは違う形で、自分も紫苑に惚れてたことに。 きっとあんたとおんなじさ。 あの男はね、人間さえも、兄さえも狂わし死なせたあの人形に、人形師として心底惚れていたんだよ。 紫苑の持った、そのかぐわしく昏い魅力を含めてね。 だからこそ、洋二郎はどこまでいっても紫苑を壊せやしなかったのさ。 兄が狂ったあの日でさえも、完全には壊せなかった。 その後だっていくらでも、処分の仕様はあったのにね。 清一郎の異変さえ、見過ごしちまっていたのはきっと、その感情もどこか預かり知らぬところで左右してたに違いない。 洋二郎は、しばらくしてから屋敷も全部引き払い、違う場所へと移っていった。 その時さ。 洋二郎は形見に持ってたあの色褪せた布きれを、二人が眠る土の下へと埋めたのさ。 ……もうわかったろ? それがこの場所。 あんたが魅かれた灰差し峠に咲き誇る、紫苑が最初に咲いた所さ。 |