その夜も、冴え冴えしていた空気も手伝い、洋二郎は目覚めちまった。
とは言え最早慣れたもの。
寝返りうったり書物を読んだり空虚な時間を使っていたよ。
いつもなら、そうしてやり過ごしてたんだがね。
その日はどうにも胸がざわめき、遂に寝床を抜け出した。
ちょっと熱燗でもこしらえて、暖を取ろうとしたんだろうさ。
お勝手まではすぐだがね、そこに行くには清一郎の寝所の前を通らにゃならん。
だいぶ治って、今じゃ近くを散歩したりもしているが、ここ暫くはどうしたものか、土気色した顔してた。
しかもこの時夜更けも夜更け、草木も眠る丑三つ時だ。
そんな時間に起こしちまうのはいくらなんでも気が引ける。
覆いをひっかけ行灯の火を極力殺し、そっと忍んで行ったのさ。
ところがだ。廊下に出て見て、洋二郎は気がついた。
ちりちりと、鼻を掠めるきな臭さにね。
秋半ば、屋敷の周りの草木は枯れて空気は乾燥していたし、ここは峠だ。
町の火消しもそうそう早くはやってや来ない。
ちょっとの火だって油断はできない場所だったのさ。
だからこそ、日頃から、火の扱いは充分気をつけてたんだが。
そのきな臭さはどう考えても、何かが燃えてる臭いだった。
まさか小火か、と慌てて火元を洗ったよ。
お勝手、仏壇、寝所をあたり、清一郎の寝所に来てね。洋二郎は気がついた。
自分が出た時確かに閉めた、清一郎の寝所の戸がね。
うっすら開いていることに。



礼儀も何もかなぐり捨てて、洋二郎はその戸を開けた。



するとどうだい、部屋にゃあ灯りも何もなく、白い蒲団はもぬけの殻さ。
洋二郎は弾けるように、脱兎の如く駆け出してたよ。
あれから避けてた道のりも、この際意識にありゃしなかった。
だけどさすがに、嫌な思い出ばかりが巡る。
ここ暫くの事を思えば、それも仕方がないだろう。
洋二郎は随分急いて息してた。
底に棲まった影がこの時、洋二郎を覆ってたのさ。
その時何を思っていたか、さすがにあんたもわかるだろう?
何度も怖れた紫暗の影が、頭をもたげていたんだよ。



離れはすでに、黒い煙をもう幾筋も空へと高く上らせてたよ。
舞い散る煤と臭いのせいで、洋二郎の目尻には知らずに涙が浮かんでた。
このままほっときゃ小火どころの話じゃないが、洋二郎にはそれさえも、頭に入っちゃいなかったのさ。
洋二郎は水も被らず寝着一枚で、離れの中に踏み込んだ。
火元も何も、行くべき場所はたったひとつさ。
唸る炎が梁を巻き、ばらばら滓が飛んできたって、洋二郎には躊躇う時間もありゃしなかった。
涙を溜めて咽んでも、絶対止まりはしなかったのさ。
満ちる熱気にあてられたのか。
洋二郎は、離れの廊下を進むたび、記憶の中の廊下を歩いているような、そんな感じを覚えてた。



最初に見たのは、紫苑をこさえ精魂尽きた清一郎。
次に見たのは、紫苑に溺れ狂気を湛えた清一郎。
なら、三度目は?



ぼやける頭を振り払い、見据えた先の障子戸は、記憶そのまま無残に大穴空けていた。
違うのは、火が飛び移り赤く染まっていたことと。
火に囲まれて背中を向けた、黒い人影それだけだった。
ごうごうと荒ぶ炎を掻き消すように、洋二郎は清一郎の名を呼んだ。
煙に焼かれ痛んだ喉はじくじく熱を持ってたけどね、それでも大声張り上げてたよ。
裂けても構わなかったんだろう。
清一郎に届くのならば、洋二郎はね、腕でも声でも喜んで、炎の中に差し出したろう。
何度も何度も何度もさ。
呼び戻すように、叫んでた。
単にこの部屋からだけじゃない。
この呪縛から、紫暗の玉から、紫苑という名の人形からね。
清一郎を呼び戻そうと、そんな想いもそうきっと、奴にはあったに違いない。
叫びすぎて、煙を吸ってぐらりと身体が傾いでも。
洋二郎は諦めることはなかったよ。
声は届いてなかっただろう。
だが、それでもね。



清一郎は、洋二郎へと振り向いたんだ。



清一郎は、わかってたのさ。洋二郎が来ることを。
清一郎は笑っていたよ。
困ったように眉は垂れてはいたものの、口の端をそっと吊り上げ、綺麗な微笑を浮かべてた。
温度差で揺らいだ景色のむこうだったが、洋二郎にもそれはしっかり見えてたよ。
それはそう、紫暗の玉も紫苑にすらも、見せたことない淡くて白い微笑みだったに違いない。
洋二郎はすぐさま叫んだ。
まだ間に合うと。一緒に出ようと。
清一郎がここにいるのも、火を点け離れを燃やしたことも。
すべてはね、清一郎の意志だった。
そんなもん、洋二郎とてわかっていたよ。その顔見れば、すぐにわかった。
炎の中に身を落として尚、清一郎はあの日と違い、己をその眼に持ってたよ。
狂っちゃいない。
溺れちゃいない。
紫苑のことを人形だったと認めたその日の眼のままに、清一郎は自ら離れに火をくべたのさ。
恐らくそこにいたのはね。人形師たる吉浜清一郎じゃあなかった。
そこにいたのは、ただの男さ。
相手が木彫りとわかっていても、恋焦がれずにはいられない、恋に一途なただの男が、そこにいたのさ。
だからとて。
だからと言って。
どうしてそのまま清一郎の望みのままにできるんだい?
膝をつき、背を仰け反らせ、掠れて音が割れちまっても。
洋二郎は、手を伸ばしたよ。



「あんたはずるい。
いつでもどこでも人形ばかりであんたは何もしないじゃないか。
自分の人形どれだけこさえてみたとこで、あんたのもんには敵いやしない。
どれだけあんたを呪い疎んじ死ねばいいと罵ってたか、そんなのあんたにわかるまい。
そんな自分に吐き気もしたよ。
出口もないままどうにかやってたってのに、あんた何した? 
終いにゃ自分の人形に、魂までも奪われやがった!
自分でこさえた人形にだよ。気違い以外の何でもない。
そんなあんたを助けてやったこっちのことも考えやがれ。
狂っちまったあんたのせいで、悔いや罪悪感を抱えて、どんな想いをしてきたか、あんたは何にもわからないんだ。
いやわかろうとしないんだ。
あんたの頭にいつもあるのは、そう人形のことだけさ。
人間なんか、弟なんざ、どうでもよかった、そうなんだろう。
図面も書けず人形作りもできなくなって、それでもあんたが戻ったなら、それでいいと思ってたのに……」



「この上自分の我儘で、おれから兄まで奪ってくのか!」



  「答えろ、清一郎っ!!」



腹ン中を曝けて見せた、一番奥の言葉がね。
炎の中を劈いて、清一郎へと届いていたよ。
汚かろうが何だろうが、そんなの構いやしなかった。
清一郎が、家族も生も投げ捨てて己の我儘貫き通し、紫苑を求めているのなら。
洋二郎も、兄のためでも何でもなく、己の心の叫ぶがままにぶつかる以外ありゃしなかった。
上辺ばかりの祈りなんかじゃ、到底足りやしなかったのさ。
これを聞いた清一郎が、どう思ったかはわからない。
だがその後に、清一郎はゆうるりと、その口唇を開いて見せた。



  す



         ま



    な



   



最後の一字は、焼け落ちてきた柱に阻まれ見ることさえも叶わなかったよ。
それでもね。
いつかも聞いたその言葉はね、洋二郎の耳の奥、確かに音をなしていたのさ。





清一郎の死に様は、すぐさま町に広まった。
当代きっての人形師の人形相手の相対死は、色々と背鰭尾鰭をくっつけてしばらく町を賑わしてたよ。
皮肉なことに、その話がまた輪をかけて、人形師・吉浜清一郎の名を広めることにもなったのさ。



だがしかし。
ほんとのところはちょいと違った。
清一郎が死んだのは、もっと深い願いがあってのことだったのさ。



焼け落ちちまった作業場からはね、清一郎の遺体の他に、二体の大きな人形が折り重なって見つかったんだよ。
おかしいだろう? 
紫苑と共に死ぬだけならば、どうして二人じゃない? 
しかも紫苑はどうしたことか、もう一体の人形にすっぽり身体を包まれてたのさ。
片腕を、腰に回され、もう片方は手を握り合い、額を胸に埋めてね。
誰が見たって男と女の抱擁以外の何でもない。
洋二郎とてこればっかりは小首を傾げてしまったよ。
これはどういうことだろう、とね。
その答えをそっと教えてくれたのは、しばらく後に見つかった、朱色の煤けた布切れだった。
しっかり組まれた手のあたりでね、その布切れは見つかった。
よくよく見れば似た切れ端は、いくつもいくつも、そのあたりに埋もれてた。
そのほとんどが黒く煤けたものだったがね、ひとつだけ、朱色を残していたんだよ。
その色は、扇子の細工をよく引き立てた、紫苑の細帯だったのさ。
握り締めてた手のすぐ傍に、朱色の細帯。
お前さん、どういうことかわかるかい?
それはそう、この二体の人形が、その細帯で手首を結んでいたってことさ。
清一郎は、わかってたのさ。
人間と人形は、決して結ばれないんだと。
だから選んじまったのさ。残る最後の方法を。



人形が、人になるか。
人が、人形になるかをね。



だからこそ、清一郎は死んだのさ。
紫苑が人になれない以上、道はひとつしかなかったからね。
「大馬鹿野郎」と何度も何度もそう呟いて、洋二郎はその切れ端を、ずぅっと大事に持ってたよ。
洋二郎は、気づいちまった。
清一郎とは違う形で、自分も紫苑に惚れてたことに。
きっとあんたとおんなじさ。
あの男はね、人間さえも、兄さえも狂わし死なせたあの人形に、人形師として心底惚れていたんだよ。
紫苑の持った、そのかぐわしく昏い魅力を含めてね。
だからこそ、洋二郎はどこまでいっても紫苑を壊せやしなかったのさ。
兄が狂ったあの日でさえも、完全には壊せなかった。
その後だっていくらでも、処分の仕様はあったのにね。
清一郎の異変さえ、見過ごしちまっていたのはきっと、その感情もどこか預かり知らぬところで左右してたに違いない。
洋二郎は、しばらくしてから屋敷も全部引き払い、違う場所へと移っていった。
その時さ。
洋二郎は形見に持ってたあの色褪せた布きれを、二人が眠る土の下へと埋めたのさ。



……もうわかったろ?
それがこの場所。
あんたが魅かれた灰差し峠に咲き誇る、紫苑が最初に咲いた所さ。







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10.05.09


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